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年高除列

年功序列は日本の悪しき風習ではなく、この世界の悪しき物理法則のようにも思える。

先に生まれた者は、後から生まれた者よりも多くの時間を経験出来ている。
フェアではない気もする。

今年のオリンピックに、今年生まれた人は出れないだろう。
どんな天才児でも、
『体の発育が間に合いませんでした…』
と記者会見で国民の期待を裏切ったことを、目が痛くなるほどのフラッシュを浴びながら謝罪しなくてはいけなくなる。

高齢になると、意思に体がついてこなくなる。
そのうち、気持ちに頭がついてこなくなる。
『戦力外通告』ではなく
『引退』という華々しさの方が、どうしてもスターの取るべき道に見えてしまうのは人間心理の仕方ない部分なのだろうと思う。

今に生まれ、今が過去になり、未来を生きている私たちに、
『時間』
は平等に流れる。

与えられる時間も密度も、決して平等ではないのに。

毎日、予選会

大人になってくると、もう年齢が上だからといって上位互換ということでもなくなる。

ある1種目に青春を捧げたスポーツマンに、30歳の運動神経抜群のマッチョが勝てなかったりする。
1 科目の勉強を頑張って共通テストで満点を取るような高校生に、偏差値50くらいの大学を出て社会に出てからは何も勉強していない大人が勝てなかったりする。

何かのプロになるには『1万時間の法則』があるらしく、
1万時間といえば1日3時間費やして10年弱。
たしかに、歴10年ともなれば、基礎能力ではなんとも勝てなさそうな気がする。

多くの人は大学入学のために受験勉強をし、
その後読んだ本は0冊。
その後取った資格は0個。
その後習得したスキルはない。
卒業証書以外に表彰されたことはない。
という人も割合的にはかなり多いはずだ。

もし大学生活の週の3日、2時間勉強していたら、
卒業までに1200時間自主学習をした状態で社会に出ることになる。
資格試験の基準勉強時間で言えば、
宅建300時間、簿記2級400時間、基本情報技術者200時間。
これだけ取得してもお釣りが来るくらいの勉強時間を確保できることになる。

細かく考えなくても、年に1個何かの中級資格を取れば、と考えたら、その価値は凄まじい。

しかしこれが出来ない。
なかなかどうして難しい。
なんなら週1で6時間を一気にやっても同じくらいの時間を確保できるのに、
毎週過ぎていく168時間のたった3.5%の時間を捻出することが出来ない。

信念、明けまして

去年出来なかったことを、今年は出来ると思える人間であれば、きっと『来年』は希望に満ちた革命の年に思えるんだろう。
例え今年が、始まる直前までそうだったとして、
実際には何も成し遂げなかった年だったとしても。

自己研鑽を続けていると、その時間の少なさに絶望する。
K-popにはまって韓国語を学ぼうにも、歌詞を理解できるまでには何百時間も必要だろう。
筋肉は1日に取ったタンパク質量以上に増えないだろうから、自分の服のサイズが上がるのは次の衣変え以降になるだろう。
プログラミング言語を新しく学ぼうにも、以前1言語に何百時間もかかったので、今回もそれくらいかかるだろう。

さて、仕事の合間に捻出できそうな時間がもう終わってしまう。
勉強だけが人生じゃない。もちろん友人とも遊び、旅をし、惰眠も貪り、意味もなく散歩をして頭をすっきりさせたりもしたい。
『無駄なことをする時間』もしっかりと確保したい最優先事項の1つなのである。

睡眠時間を削ると集中力が持たず。食事時間を削ると生きている楽しみも減り。
友人との時間を削ると勉強するモチベーションも下がる。
限られた1週間168時間のうまい使い方は、30年、262,800時間生きても見つからない。

でもそれだけ時間をかけたら、わかったこともある。
『来年の私も、今年の自分と同じくらいしか頑張れない。だけど、それくらいは頑張れる』

来年こそはと力む私の肩を、今年の私が少し強めに揉み解す。

スタディギャップ

5歳と15歳は、10年の差がある。
大きな差だ。
多分何をやっても15歳が勝つ。

10歳と20歳も、10歳の差がある。
大きな差だ。
多分何をやっても、20歳が勝つ。

15歳と20歳は。
ここら辺から怪しくなり、25歳と30歳くらいになるともうほとんど差なんて無くなってくる。

人生という面で見れば、5年の余地があり、体の衰えも少ない分、25歳の方が勝つのではないかと思えるくらいには、年齢差が効力を発揮しなくなってくる。

でも多分、過去5年で本を1冊も読まなかった人は、次の5年も読まない可能性が高い。
次の5年で100冊読んでも、30歳までに500冊の本を読んだ人には、30歳時点での読書数は敵わない。

何も量だけの問題ではないのは百も承知だが、ある程度は量に比例して力はついていく部分も大きいはずだ。
『5年あるから』は、勝利の計画が立てられて初めてポジティブになる言葉であって、無計画な『5年あるから』は、未来の自分への無責任な責任転嫁だ。

5年が過ぎた時、5年分成長したかどうかは自分にしかわからない。
5年前の自分の予測を『若かった』とするのか。
『5年もあったからまぁね』と誇らしげに語る加賀、変わってくるというだけの話だ。

積立NASAI

老後の不安のために資産形成を始めても、経済的に余裕があるから資産運用を始めても、株価は個人の事情では動かない。
動機がなんであれ、先に始めた者、長く保有した者に複利がついてくる仕組みになっている。

努力の積立は、早く始めた方がいい。
年末でも年始でも、夏休みでも2学期からでも、いつでも自分が始めたいと思った時に始めればいい。
『いつ始めるのがベストタイミングですか?』
と聞いた時が、きっとあなたのベストタイミングだ。

Helloが言えれば、きっとHow are you?が返ってくる。
言えなかった『I'm fine.』を、きっと学ぶ時が来る。
それを学んだら、もっともっとわからない単語が飛び交うコミュニケーションが降り注いでくる。
学ぶことを行動に移した人には、試練が降り注ぐように出来ている。

しかしそれを与えるのは神ではない。
与えられる試練も、全て乗り越えられる訳ではない。

乗り越えられなかった試練に挫折し、自分を知り、
自分を誰よりも知る自分が、また自分に試練を課す。
乗り越えた試練が、次の試練に繋がる。
そうやって生きる人は、きっと試練を『挑戦』と呼ぶようになる。

神様は1000円を握らせて『センスで!』と我々をぱパシったりはしない。
コンビニのお菓子が買いたければ、そのお金をどうにかして稼ぐ方法を考えなさいという他にない。
それすら言わずに見守っているからこそ、我々に少しだけ考える力を与えたのかもしれない。

天からの啓示がなくても、結構前から気づいているはずだ。
『今こそ、始める時です』
自分で日記帳に書いた何度目かの決意を、
玉砕していった過去の自分達の屍を超えて、明日の自分に襷を繋ごう。

最後に

理想を描いたら、それが100%。
現実は多くの場合、100%に到達することはない。
しかし現実は、結構努力に比例して結果が出るようになっている。

1時間勉強したら、1時間分が自分に残る。
ただその密度や吸収率が、今までの自分の努力に比例するだけのことなのだと思う。

自主学習10年目の人は、自分に合った勉強の仕方を知っている。
やる気が出ない時に吸収率が悪いことも、そんな時でも続けていける方法を知っている。
1年目の人は、まだそれを知らないというだけで、
きっと『あの衝撃』をこれから味わうのだ。

『不朽の名作』と呼ばれた映画を、映画館で見た人がいる。
復刻版と名付けられてセール品になったその作品を、自宅で見た人がいる。

人生のスタート地点が違うだけで、ラストの衝撃を語り合いたい衝動は同じはずだ。
先輩は『その歳でアレを知れるのは羨ましいなぁ』というかもしれない。
後輩は『もっと色々知ってから見たかったなぁ』というかもしれない。

同じ時間軸に生きる、違う人生時間軸の2人だからこそ、
味わい、噛み締めた感動の表現も違うのだから、面白い。

目の前の現実が、昨日までの自分の蓄積した人生が見ている一つの理想であるように。
パンを咥えた女子高生にぶつからない、フルリモートの学生生活が終わる。
『よーい、スタート!』
自分で鳴らしたホイッスルを投げ捨てて、一直線に走り出す。

社会に出たら、多分サラリーマンもOLも、最初からパンなんて咥えて通勤しないから安心していい。
社会人1年目の新人らしい元気な自己紹介に、自分哲学をのせて。

0じゃない『自己学習歴』の先輩として。

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