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卑怯ツアー

人は迷う。
目の前の2つ以上の道を、時間をかけてじっくりと選ぶ。
蛍の光が鳴る頃に、迷った分だけの時間を加味し、
さらに重要な決断となった目の前の分岐に人生を賭ける。

『選択肢』

その魔力に、人は翻弄され続ける。

再善を尽くす

意思決定の速さは、きっと強みだ。
それが根拠を伴っていて、己の理念に準じているのであれば、
そのスピードは強さに変わる。

短距離走を駆け抜け、長距離走を走り切り、総合タイムを競うこの世界の中では、
時間を有効に使い、先手を打っていくことの意義は大きい。

しかし迷うのも一興。
人生は選択の連続であり、『たらればの世界』ほど想像して面白いものはない。

もしも自分が、あの時違う方を選んでいたら。
もしも自分が、あの時少しだけ早く家を出ていたら。
もしも自分が…。

直感と熟考のバランスに正解はないように見える。
自分の『納得』というゴールに辿り着ければ、そのバランスは正解とみなされる。
結果論でしかない。

しかしあまりに早い決断は、不安や疑問を生む。
1件しか見ずに物件を決めてしまえば、それは『十分に検討していない』という見え方になるのも致し方ないことだろう。

私は思う。
『何件見れば、自分がこの家に納得していることが伝わるんだろうか』

1年をかけて、100件を内見する頃には、きっと1件目にはもう誰かが住んでいるに違いない。
1ヶ月をかけて、10件を内見する頃には、1件目の部屋の真ん中に立った時の気持ちはほとんど覚えていないに違いない。

『愛するものを選ぶより、選んだものを愛して生きていきたい』

10年以上も前の自分が、そう言葉にしたことを、ふと思い出す。

オートポジティブ機能

『秘書問題』という数学の命題では、論理的に答えが出ているのだという。

100人候補者から最も優秀な人材を確実に選ぶには、何人目までを不採用にすればいいか?
これに対しての答えは
『37人目』
らしい。

38人目以降で最も優秀な人を採用するのが最適であると、この世界の1つの原理たる数学は導き出している。

しかしおそらく、内見は38件もしない。
異性38人と付き合うこともない。
転職を38回することも。
面接ですら、38社となれば相当な労力が必要になる。

条件こそ違えど、最善の選択には必ず
『自分なりの最適選択条件』
があるはずだ。
それを自分で持っていないと、何もかも今の自分を肯定するだけの
『脳死ポジティブ』
になってしまう。

大好きだった彼氏に振られて泣いている女性が、1ヶ月後には『運命の人』に出会ったと言っていたとして、それが運命ではないことを証明できる人は誰もいない。
いつかそれが運命ではなかった時に、結果論を指摘するだけしか我々にはできない。

『最新が最高』
『今が至高』
『現実が最適』

それは一見、幸せなように見えて、
多分選択自体を放棄した、人生を棒に振る形だ。

今がたとえ苦労してたどり着いた場所だとしても、それが正解かどうかを結論づけるのは焦燥だ。
だって、それ以外の世界は、同時に選択できなかっただけの話なのだから。

年収が1億円になったら、そんな今が最適だというのなら、
それは同時に、『年収1,000億円の世界』を想像できないだけの話なのではなかろうか。

自分の限界に満足し
『これが私の正解だから、誰も私を否定しないで』
と、自分よりも下位の人間たちに頼み込んでいるだけのことではなかろうかと思う。

脳死ポジティブ。
そんな人の人生の結末は決まっている。

『最高の幸せ』
『自分の正解』

始める前からもう決まっている。
だって、結果論なのだから。
今の自分が選択したことに、今の自分がある状況に、受け入れるべき運命に。
そして、努力の末たどり着いたこの世界を、誰にも否定させる権利など与えないのだから。

熟成という名の腐敗

目の前の分かれ道で、人はやはり迷う。
まるで自分には無限の可能性があるかのように、遠い先を見て心躍らせ、
その先にまだ見ぬ2つのユートピアのどちらをせしめてしまおうかと手を揉む。

そうしている間にも、ユートピアの資源は減っていく。
先に辿り着いた者達によって食い尽くされた資源の残りカスを、
長考の末に辿り着いた者が受け取る。

『これが私の最高の幸せ』

減った後のその資源を大切そうに、まるで最大量を抱くかのように。

きっと、選択肢がある状態が幸せなのだ。
何も選ばず、あたかもどちらも選べるかのような状態が人の幸せなのだと思う。

どちらの未来にいかなければ、どちらの未来を選んだ責任も負わなくていい。
どちらの世界も選ばなければ、どちらの世界も捨てなくていい。

宝くじは、結果が出てしまえばほぼ100%外れるのがわかっているのだから。
そんな人には『永遠に結果が出ない宝くじ』
そんな紙切れをプレゼントしたい。

『夢』『可能性』

そう呼んでいる、現実にならないからこそ持っていることで幸せになれる。
なぞなぞのような不思議な概念を。

最後に

夢を追う人は素敵だ。
追うという行為自体が、前に進んでいることを証明している。
進みたい方向があり、追いかけたい何かがいて、
それだけで、きっと人は生きていける。

だからこそ、目の前にぶら下げられたニンジンを追いかける馬にならないことだ大切だ。
他人から見せられた『永遠に結果の出ない宝くじ』を大事に持つのではなく、見えない果てのユートピアの資源が減っていくのを分かれ道で待つのでもなく。
自分の足が赴く方向に、素直に歩いていくことが大切なのだろうと思う。

結果を全て受け入れてしまえば、脳死のポジティブになってしまう。
それはとても恐ろしい。
誰かの真剣な相談を『大丈夫、いいことあるよ』で済ませてしまう。
誰かが向き合うべき過ちを『こっちが前だよ』と目を背けさせてしまう。
誰かの小さな可能性を『それよりこっちが大きいよ』と踏み潰してしまう。

そんな軽率な一言を、自分の輝きのために他人に浴びせるポジティブさん達がたくさんいる。
軽やかにダイブしたそのオーシャンブルーは、多くの人がたどり着く自殺の名所かもしれない。
泳ぐ力のない人が、海流に巻き込まれて二度とは上がってこれないかもしれない。

『ほら、こんなに素敵な景色が見える』

甘い言葉に、人はすがる。
輝く言葉に、救いを求める。

『これが私の正解だから!』

と、自分だけの正解のはずのその現実を、他人にも与えようとする、
自分のアイデンティティと、相手の可能性と、どっちもを同時に殺してポジティブさんは笑う。

競走馬の視界を遮る黒い眼帯のように、見なくていいものを見せないことで、
人は明るさを見せる。

未開の地の原住民の生活を開拓するのは、善意ではなくただの余興だ。
そんなカリスマが、この世にはたくさんいる。
神のような振る舞いをした、一辺倒の無個性ポジティブが蔓延る。

『それ、普通に選択ミスじゃね?』
と、真剣に相手を考えて放つ言葉は決して許されるとはない。

『この先、危険』の黄色と黒の看板は、映えないというだけで撤去される。
そんな世界の中で、『選択肢』を選んでいこう。

選ばれなかった可能性達にしっかりと別れを告げて。
来世ではきっと選ぶよ、と遺言を残して。

青く染まるその海に飛び込む。
今も誰かが飛び込んだことを私たちが知らないのは、どうsていだろうかと考えてみる。

SNSに上げていないからか、それとも、海面に上がってこないからか。


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