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初任給で買ったオーディオとサヨナラした

はじめに

これは、「[いちばんやさし,いきいき]+いくおの Advent Calendar 2021」五日目の記事だ。

日曜日は趣味の話。そして今日は、趣味を辞めた話を書く。

初任給が出てすぐ、つくばの石丸電気で買ったオーディオ

大学院前期課程を修了し、つくばの万博記念公園あたりにある某半導体企業で社会人生活のスタートを切った私は、初任給が出たら買おう、と決めていたものがあった。「ちょっといいオーディオセット、できればサラウンドで」だ。

いまはもうなくなってしまったつくばの石丸電気に足繁く通い、選んだのはONKYOのシステム。トールボーイも一緒に買った。
このとき、ほぼ毎週のように石丸電気に赴きオーディオコーナーをうろついていたからか、店員さんのほうから「これくらい値引きできますよ」と提示してくれたことを今でも覚えている。

初めて5.1chで映画「マトリックス」を見たときは、その臨場感に感動した。

本物の大砲を使った1812を何度も聴いた。

数年後にレコードプレーヤーを購入したときには、「アキレス最後の戦い」の生々しいサウンドに興奮した。

生活からオーディオがフェードアウトしていく

結婚し、子どもが生まれた。当時住んでいた部屋はリビングと寝室が隣接しており、子どもが寝ている時間に大きい音を出すことは憚れる状態だった。そもそも小さい子どもがいる環境で、じっくり音楽を聴く時間などなかなか取れない。自分自身も音楽を聴くという行為より大切なものができたわけで、生活からオーディオは徐々にフェイドアウトしていった。

一軒家で返り咲き

二人目の子どもが生まれ、1LDKの部屋では何かと不自由するようになってきた。郊外の一軒家を買い、引っ越しの作業をしながら私はあることに気がついた。

一軒家なら、音鳴らせるじゃん!

引っ越し作業中の我が家

眠りについた子どもたちが起きてしまわないか気にすることなく、音を鳴らせる日々がやってきた。広いリビングで鳴らすDavid BowieのBLACKSTARは、とても心地よいものだった。

そして、この引越し直後の時期が我が愛しのオーディオにとって最後の最盛期だった。

リビングの主役たち

気がつけば子どもたちは成長していた。自分の意思で選び、行動する。親が選んだコンテンツを享受する時期は過ぎて、自分たちでYoutubeやAmazon Prime Videoから見たいものを探す。

音楽にしたってそうだ。物心つく前は爆音で流れるRhapsody of Fireを受け入れていた長女が、私が何か聴いていると「Alexa、YOASOBIをかけて」と場の音楽を上書きするようになってきた。

子どもたちは、いや妻も、音質がどうとかより利便性を重視する。電源を入れて音量を調整して、座る位置はなるべく真ん中に…なんて気を使うオーディオよりも、「Alexa、○○かけて」といったら要望を満たしてくれるEchoやiPadのほうが音楽を聴く媒体としてよっぽど適切なのだ。

止めの一撃(物理)

おわかりだろうか

スピーカーの仕組み。振動し、音を鳴らす。音が鳴っている間振動するその物体、そんな魅力的なものを幼子が見過ごすだろうか。いや、見過ごさない。

その結果がこれである。

止めの一撃(論理)

ツイーターはへこんでしまったが、音が出ないわけではない。だましだまし使っていたが、ここにきて事態が激変する。

Amazon Musicが、ハイレゾに対応したのだ。

これが何を意味するか。「家のオーディオで聴くのが、一番音質いいんだよね」が通用しなくなる、ということだ。スマホにポタアンをつないでバランス接続で鳴らす音のほうが、リビングにおいてそれなりの場所を占拠しているオーディオたちが鳴らすそれより良いのだ。

さらば我が青春の日々よ

豊かなオーディオライフをありがとう

物理的にツイーターつぶれてるよね、という状態と、ライフスタイルがリビングで音楽を聴く形態ではなくなったこと、そして大きくなってきた子どもたちがリビングでのびのびいきいきできるようにしたい、と思ったことから、このオーディオを手放すことにしたのだ。

妻は何度も聞いてくれた。本当にいいのかと。いいんだ。よかったんだ。

オーディオが中心に鎮座していないリビングなど、10年以上ぶりだ。その空間の空虚さに戸惑いがないといえば嘘になる。ずっとそれは、そこにあったのだから。

でも、オーディオがなくなった空間で、子どもたちが嬉しそうにクリスマスの飾り付けをしている様を見ると、これは良い選択をしたものだとも思うのだ。

部屋が広くなることを期待していた妻は若干不満げではある

一抹の寂しさとともに、子どもたちが成長したことの嬉しさ、妻のおもいやりの暖かさ、自身の変化への驚きなど様々な感情が押し寄せてくる。

ずっと大切にしていた趣味を、趣味ではなくするというのは寂しいことではある。しかしそれが自分の意思に基づいたものであり、もっと大切なもののために決断したものであれば、瞬間の痛みがあったあとには良い思い出になる。今回、それを身を以て知ることになった。

ありがとう、ONKYO。また会う日まで。



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