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うつ病家族の日々|自分のこと①適応障害の過去

みなさんおつかれさまです。ドアパインです。
今回は過去に患った適応障害の自分のことを話したいと思います。
自分と向き合うのは少しつらいですが、気軽に読んでみてください。


適応障害の診断受けたこと

私は臨床工学技士という仕事で働いています。


簡単に言うと医師や看護師のスキマ産業で働く職種とでも考えていただければと思います。

そんな臨床工学技士の仕事は病院によって種々様々な形があり、バリバリ急性期(救急患者に対する治療の最前線)で働くこともあれば、まったりのんびり慢性期(機器管理や慢性透析患者の治療)のような場合もあります。(※もちろんこれだけではないですし、慢性期治療を下に見ているつもりは毛頭ありませんのでご理解くださいm(_ _)m)

そんな私は急性期病院と呼ばれる総合病院に就職しました。はじめはゆったり慢性期な透析から開始しましたが、数年後ICU(集中治療室)勤務に配属となりました。同時期に結婚と一人目の男子が生まれ、仕事も家庭も充実した幸せいっぱいな毎日!・・・と思っていたのですが、現実は全く違うのでした。

まず、仕事。


集中治療業務は緊急の心停止患者さんの治療に従事したり、手術後の血液浄化業務など夜中も日中も関係なく発生する患者の対応が必要となる業務です。そんな激務を想像していなく適当な気持ちなアホ気分で配属先に行った、スパルタ上司のもとうまくできるはずもなく、メンタルを削られる日々を送っていました。

そして、同時期に結婚と出産。


結婚を機にかなり妻には支えてもらっていたので、そこは良かったのですが、そこに子が誕生しました。上記の激務に加え、そのときの世論のイクメンブーム。杉浦太陽がまぁまぶしいこと。疲れてTVを付けても「こんなに育児やってまっせ」「これやらな今の時代の理想の父親にはなれませんよー」って強烈に言われている気がしました。(もちろんそんなことは言っているはずもなく、そこに過敏に反応してしまっていた私の心が弱かっただけなのですが。。。)

そして毎日の夜泣き、慣れない育児でノイローゼ気味の妻。

すべてがうまくいかない日々でした。

仕事から帰ってきてもソファーで横になり、言葉も発せず、眉間にしわを寄せている日々を過ごしていました。(私はそのころの記憶がほとんどありません(^▽^;))

有る日限界を迎えました。


「俺、病院にいってくる!」とソファーから立ち上がり、なぜか病院にいくことを決意しました。

そして調べて到着したメンタルクリニック。わたしは他人の目もはばからず、医師、看護師の目の前で5分間泣き続けたのでした。。。。

泣いたことは記憶今でも鮮明に記憶に残っており、自分自身誰にも相談できずに強がっていて、逃げ場がなかったのだと思います。

診断が下ったのが「適応障害」でした。

それからは徐々に薬を飲み、落ち着きを取り戻していき、1~2年で薬なしで適応障害を乗り越えることができました。

簡単に書いてみたものの、あの頃はつらかったなー。
仕事も大変だったなー。まぁそれを経験しての今があるので、あの時の自分には「よく頑張ったよ、おつかれさまね」と声をかけたいと思います。

これからのこと

ここまでお読みくださって本当にありがとうございます。
こんな経験を読んで誰かの気が少しでも楽になれば。そして、すこしでも面白いエンタメとしてとらえてくれるといいなと思います。

それから15年経過し、現在またメンタルクリニックに通っています。
また今度書きますが、現在は落ち着いており、また適応障害とは異なった病気になっている気がします。

最近飲んだ小学校時代の同級生の励ましの一言。


「気にしすぎださー」「考えすぎださー」
その言葉に今は励まされて生きています。

また、自分のこと、家族のことなど書いていきたいと思います。
お読みくださり、ありがとうございました。感謝。


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