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エッセイ『思い出とお散歩』

(エッセイと言いつつ、最初に素敵な音楽をどうぞ。)
Ella Fitzgerald『on the sunny side of the street(live at the crescendo)』

 街を散歩していると記憶を見る事ができる。

 僕は散歩が好きだ。ちょっとした時間で、晴れていて、気分が乗っている日なら、散歩に出かける。気分が乗ってない日は出かけない。家で横になってる。

 地元をフラフラ歩く。もしくは、飲みの予定がある日、早めに繁華街に乗り込み、すでに酒の雰囲気が漂っている街を歩く。

 何気なく歩く。特に大切なことを考えることなくただ歩く。目の前に現れる風景を見て、「ふ〜ん」と、思うだけ。思うだけなのだが、小さい頃から知っている地元や外観の風景だけは知っていた繁華街でも、ちょっとした変化に僕の中のアンテナが反応する。

 ここにあったよく分からない居酒屋が気づけばよく分からないガールズバーに様変わりしている事。若者に人気だった、店内広めの少しおしゃれな居酒屋が気付けばテナント募集の張り紙がある事。

 近所にコインランドリーが増殖し始めていること。ちょいちょい行っていた本屋が無くなっている事。

 僕自身が成長していくごとに、街も様変わりしていく。これは衰退とも言えるのかもしれないし、時代と共に変化しているとも言える。時代が変わる事だから、誰がどうしたってこの変化は変わらないのだ。僕だって、常に変化をしていっているし、今これを読んでいる、どこかの誰かだってこの時間この時から変化しているのだから。

 だからこそ、かつて何かがあった場所に、心が動かされる気がする。

 僕の近所にかつて魚屋さんだったところがある。小学生の頃から、ここはおそらく魚屋さんだったのかなと薄々は感じていた。明らかに外観が魚屋らしい魚屋だったのだ。一番は看板の跡があったのだ。「〇〇鮮魚店」と。

 子供ながら、そこの前を通るたびに、ここはかつて、近所の人々が賑わっていたのかなとそう思っていた。それこそが、記憶を見る、そんな感覚だった。
丁度、その場所はやや細めの道路に家が連なっていて、その一つだった。その連なりが、かつてそこを歩く人々の行き交いが想像させられる。

 その感覚は親からその街のことを聞いて、納得させられた。

 どうやらその鮮魚店があった通りは商店街だったらしい。今や店と言える場所は一つもないが、かつてはそこは商店街だった。鮮魚店もその一部だったのだ。まさに僕はその街のかつての記憶を想像して見たのだ。

 人々の賑わいが散歩していて、目の前に出てくる風景に想像できる。それこそが記憶を見るということなのかなと思うのだ。人々の記憶を見るということなのかなとも思う。まあ、ノスタルジーってそういうことなのかなとも思ったりもする。

 繁華街に行けば、かつてパチンコ屋や居酒屋、バー、スナックが入っていたビルが形をそのままにして残している。人が今もリアルに行き交う街の真ん中にそんなビルがある。異様に取り残されている人っこひとりいないそのビルを見るたびに、かつての賑わいを想像して見ている。

 かつての人々の記憶、賑やかに話している風景を僕は何気なく歩いて見ている。特別、それを思い何かをすることもない。ただ、それを見ている。僕もその中に入る事ができればいいのに、と思いながら、僕はテクテクとただ歩くのだ。

 もしかすると、どこかの居酒屋やバーで名前の知らぬ人々と同じように賑やかしくするのかもしれないし、近所のコンビニや定食屋の店員の何気ない話をして、笑顔を見せているかもしれない。

 それもいいなあ、と想像をしながらも、僕はそのノスタルジーを感じ、記憶を羨ましがりながら、散歩をしている。散歩って、こういう街の記憶を見るのも楽しい。

(最後にこの曲でお別れ。)
pizzicato five 『ハッピー・サッド』


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