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動物問題連続座談会第1回 動物から考える社会運動④運動の燃え尽き(バーンアウト)の原因、運動とお金

わたしたちはなぜハラスメント運動/野宿者支援をしながら動物の運動をするのか?——動物問題連続座談会の一回目第四段。野宿者支援・労働運動など複数の問題に携わってこられた活動家の生田武志さん・栗田隆子さんをゲストにお呼びし、交差的な運動についての議論を深めていきます。

【参加者】
深沢レナ
(大学のハラスメントを看過しない会代表、詩人、ヴィーガン)
生田武志(野宿者ネットワーク代表、文芸評論家、フレキシタリアン)
栗田隆子(フェミニスト、文筆家、「働く女性の全国センター」元代表、ノン・ヴィーガン)
司会:関優花(大学のハラスメントを看過しない会副代表、Be With Ayano Anzai代表、美術家、ノン・ヴィーガン)

*記事化にあたり、動画の内容を加筆・修正しています。



運動特有の難しさ


——栗田さんと生田さんは、わたしたちと比較して運動歴が長いですが、いろいろな困難や、燃え尽きそうになったり運動をやめそうになったときの対処法がありましたら教えてください。

栗田 運動の困難というときに、たとえば運動の考え方の違い——女性の運動だったら、「バリバリ頑張る人を目指した方がいいよ」とか「いやいや草の根からやっていくべきだよ」とか、そういうのは意見の違いじゃないですか。それで割れるのはまだまっとうだと思うんですよね。そうじゃなくて、運動内でいじめがあったり、今だったらフェミニズムでもシス女性がトランス女性を差別したり、いじめることもあるし、フェミニズムに関わっている男の人から女の人への差別やいじめがあったりする。今の日本の中で、社会を変えられない要素というのは他にもいっぱいあると思うんだけど、一つはやっぱり、そういう運動の中の、イシューや思想的対立ではないところで起こるジェンダー差別、あるいは民族差別、あとお金の問題、横領とかも含め、そういう運動の目的と全然関係ないところで起こることがまず運動を停滞させるよね。

 それから、これは具体的な事例ですけど、たとえば「ジェンダーの問題があります」ということまでは認識してもらったとしても、野宿のイベントや集会でガイドラインやグラウンドルールを作って、それを周知させようとなっても、それを作ったり報告したりするのは全部女性だったりする。そうなると、毎年違う地域がやる集まりで、「セクハラをしないようにしよう」といったことを次の年もやるかというと、関心ない人しかいなくなったらそういうのは全然作られなくなってしまう。

 だから2008年に北海道で、いわゆる先進国の首脳が集まるG8の会議に、「そんないわゆる先進国首脳といった『偉い人』たちだけでいろいろ勝手に決めるなよ」とG8に反対する運動があって、そういうなかで、セーファースペースという発想が海外から日本にやってくるんですね。特に女性やセクシャルマイノリティや障害を持っている人が、運動の中で何か違和感があったときに、相談したり、安心して過ごせるよう特に意識しようと。でも、これもなかなかうまくいかないことが多い。そもそも安心安全ということをどのレベルで考えるかというのも人によって違ったりするし、役割分担が決まっちゃったりもするし、もっといえば女性同士でもセーファーに対する考え方は違ったりすることもあるから、正直うまくいったという事例をあまり聞かない。じゃあ、フェミニストとかジェンダー問題をやっているところならそういう問題が起こらないかというと、それはまた全然話が違ってて、今度は年齢や運動経験とかで、いじめが起こったり、人の話を聞かない、とか、意見がぶつかったときに「そんなこというならわたしはもうこの会やめるわ」みたいなことを年長の人が言い出しちゃったりする。

 つまり、運動のイシューでぶつかるというより、社会的な力関係とか、ある種、教室の中とか、普通の会社の競争関係みたいなものが、そのまま運動内にも入り込んじゃう。しかも運動のやっかいなのは、労働の場所だったらまだ労基法とか法律があるし、最近ハラスメント防止法だってできたりして、一応法律的な規制はなくはないけど、運動みたいなボランティア団体だったらそういう法律もないから、自治みたいなものをどうやっていったらいいのかというのがすごく難しい。

 さらに運動って、社会的に正しいことを言っていくのに、そこで悪事があると、そこで被害を受けた立場の落胆度が深い。会社だったら、もちろんむかつくし、生活の場を奪われるという怒りはあるけど、「正義を行っているのにそうじゃない」という落胆とはまた質が違ってくるんじゃないかと思うんですよね。やっぱり、キリスト教のなかのハラスメントでも、よいことをやっていて、ここだったら社会正義が守られるはずだ、と思った場所で裏切られるということの喪失感というか、がっかりさせられる思いみたいなものは、運動独特の困難なんじゃないかな、と思います。



長続きのコツ


生田 今の栗田さんの話を聞いていると、これは学校でのいじめと、職場でのハラスメントとよく似ているんですよね。結局、運動をやっていても、学校や職場と同じ問題が起こっていて、それの解決方法を我々は全然学んでないという気がします。しかも、さっき栗田さんが言われたみたいに、いいことをやっているのが前提のはずなので、そこで矛盾がますます目立ってきて、みんな心が折れちゃって、いつのまにかみんな離れてしまうというパターンですよね。運動をやっている人はみんな突きつめるタイプの人なので、何か矛盾が起こったら、バンバン突きつめていっちゃう。そこで争いがますます激化していくという面もおそらくあるんでしょうけど、我々は矛盾があったり対立があったときに、どうやってそれを解消していくかという基本的なことを学んでいないんじゃないかという気はします。

 これは今でも僕らにとっては大きな課題なんです。けど、矛盾を突き詰める方向だけに向かってしまうと、みんなしんどくなってしまうので、現実的には、事務的な問題や、ある程度パターンでできる面というのが運動にもあって、そこに重点を置くという方法もやっています。例えば夜回りもそうかもしれないけど、たとえば、各コースでそれぞれ分担して回って行っていくといった、ある程度パターン的に地道にできる活動だと、支援者間で煮詰まることがあまり起こらなくなるので、そこを活動の主な面にするというのは一つ現実的な解としてある。それは妥協案というか、現実的な解決案なんじゃないかと思うことがあります。

* 夜回り


 ただ、思い出すと、自分が持ってる差別とか無理解というのはずっとあって、それはよく人から指摘されて「あ、そうか」と初めて気付くんだけど、それはずっとあったと思うんですね。たとえば僕は学生の時セクシャルマイノリティのことをまったく何も知らなかったんです。二十代のころ、河合隼雄の本とかよく読んでいて、おそらくその当時は河合隼雄本人も全然知らなかったと思うんですけど、男性の大学生が同性の人に恋心を持つ、という事例を挙げて、「これは親子関係の問題からそういった心理になっている」と書いていたんですよ。まあそういうこともあるでしょう。今だったらそれについてセクシャルマイノリティの問題も当然触れるべきだけど、その本には書いてなかった。僕はそれを真にうけちゃって、同性愛って親子関係の問題からくる一種の神経症だとずっと思い込んでたんです。それで釜ヶ崎に行って、そこで人から初めて指摘されて、ハーヴェイ・ミルクの伝記映画を勧められて見たんですね。ハーヴェイ・ミルクはゲイでアメリカではじめてゲイであることをカミングアウトしながら市会議員になった人で、暗殺されんです。そ映画になっているのを見てびっくりして、「あ、自分は全然思い違いやってるわ」と認識が一変しましたね。そんな感じで、人から指摘されて理解できることもあるんだけど、逆に言うと、少し教えてもらえればわかることも全然知ってなかったということですね。

 あと、釜ヶ崎では女性の支援者がいっぱいきているんですけど、よく三角公園の壇上からアピールする。すると、労働者とかから結構ヤジが飛ぶんですよ。「ちゃんと喋れ」とか。それで女性はますます喋れなくなっちゃうんです。釜ヶ崎では労働者から結構きついこと言われることもあって、僕も言われてきたので、それってむしろいい機会なんじゃないかと思ってた。だけど、当時の僕みたいな若い男性に対して言うのと、20代の女性に向かって男性の労働者が言うのとでは、まったく意味が違うんですよね。でもそれがまったく見えてなくて、女性に対しても同じようにきつく言われていたら、「いい勉強だ」と思っていて、これについても女性に「あれはセクハラでしょう」と指摘されてはじめて、「あ、そうか」と認識が一変した。そういった差別や偏見というのは、なぜか抱え込んでいて、それはなかなか自分では気付けないんですよね。そういう意味では、相互に批判していって、一歩でも進めていかないといけないんですけど、人間関係の問題があって、「この人は言いにくいな」というのがあったり、それが積もり積もって運動ができなくなったり、といった問題もあって、やはり難しいなというのは思います。


* 三角公園

 
 これもさっき栗田さんから言われたけど、僕も潰れちゃうときはあって、しばらく何年間か運動できなかったんだけど、最近はずっとやれているんですよ。これはなんでかなと考えたんだけど、僕はよく、風邪で寝込んだり、怪我したりするんですよ。今も怪我しているんですけど、前は山王こどもセンターにボランティアとバイトで行ってたので、こどもからウイルスもらって、年に5回くらい風邪で寝てたりしてた。最近多いのは怪我で、自転車でひっくり返ったり、つまづいて足の骨から腱がはずれたり、あと、うちの家100年前から建っている家なので鴨居が低くて、頭を思い切りぶつけてむち打ちになったりするわけですけど、寝込むんですね。寝込むと活動休むんですよ。今も休んでるんですけど、そうするとそのあいだ結構気分が変わります。本をしっかり読めたり。

 もしかしたら、怪我って、自分が自分に「休みなさい」って言ってるんじゃないかと思うことがあって、ある意味で怪我とか病気って、しんどくなったときに天がくれているのかな、と思うことはありますね。なので、追い詰められたときや燃え尽きそうになったときは、これでしのいでるんじゃないかと思うことがあります。



運動とお金、そしてナショナリズム


深沢 お二人に聞きたいのは、運動をやっているとお金にならないじゃないですか。それって現実的にどうしたらいいのかな、と悩んでいます。

栗田 お金の集め方みたいなことですかね?

深沢 そうですね。お金がなければ活動できないし、でもお金集めを頑張ろうとすると、どうしてもビジネスっぽくなってきちゃったりするし。

栗田 こここそ、まさに運動のスタイルに関わってくるんですよね。自分がどういう方針でやっていきたいのか、みたいな。たとえば、何か会を作って、会費を集めるというのがやり方としてありますよね。わたしのいた団体では、女性の労働団体で、当時500人くらいいたので1人1000円1年間会費をとって、それでフリーダイヤルの労働相談をしたり、デモンストレーションの抗議行動、あるいは国会や霞ヶ関で審議会をやっているときに傍聴しにいったり、裁判を傍聴しにいったり、そういう運動をやっていた。会の会員になるとそういう情報が手に入るよ、というメリットがある代わりに、会費を取る、というやり方をしていた。最近のはやりはクラウドファンディングとか。

 あとは助成金。世の中にはいろいろな助成金というものがあって、わたしはあんまり好きじゃないけど日本財団みたいな大きなところや、トヨタの財団とか、そういうところからの基金を申し込む。ただ、助成金をとっちゃうと、書類で書いた通りのことにお金を使わないといけないし、クラウドファンディングだって、クラウドファンディングで集めたその目的のことにお金を使わないといけない。あと、政府とか自治体の「下請け」といったら言葉が悪いかもしれないけど、そういう立ち位置になるとしたら、自治体に歯向かうことはできない。お金の回し方というのは、どういう運動をしていきたいかというところと深く関わることではあって、わたしはどっちかというと、助成金をもらったり自治体の下に回って何かやるという運動ではなく、稼ぐ場所は他に作るほうが多かった。運動で生計を立てられるようなことはあんまりやってこなかったかな。そのほうが自由にはできる。ただし、事業ではないから安定性はない。わたしはお金を稼ぐのは得意じゃないから全然参考にはならないけど、やり方としては主にそういうお金の集め方があると思う。生田さんの方が詳しいかも。

生田 あんまり詳しくないですけど、僕のいる野宿者ネットワークは、僕ら自身が会費払って、あと会員さんがお金くれて、年間100万で動いているんですよ。大概が寝袋と公園での食事代に消えちゃうんですけど。あと、夏に飲み物配ったりね。我々全員ボランティアで、まったくお金が入らないというスタイルです。一方で、運動の中には行政からお金をもらっているところもあるわけね。釜ヶ崎は全部ボランティアが基本なんですけど、90年代、日雇いの人のための公的就労を受ける法人を作る必要があり、NPO団体もできたこともあって、そこら辺から行政からお金をもらって運動するスタイルができてきた。これはいい面と悪い面があります。

 まず、ボランティア、無償でやっていれば、好きなことが言える。行政にどんなことを言っても何の問題もない。一方で行政からお金が入ると、どうしても「枠」ができちゃうんですよ。これはいいけど、これはできない、というような。これは個人の問題ではなくて、お金の問題としてそうなってしまう。ただ、お金をもらってフルタイムで働けるので、我々が他の仕事があるのでできないことも、お金もらっている団体はフルタイムでできる、といういい面がある。だけど、路線対立が起こりやすくなってきて、いずこの世界でもあることでしょうけど、お金もらっている団体と、お金もらっていない団体が、立場の対立によって激しい争いを——路線対立とか、論争するというのはずっと続いています。

 理想的には、それぞれがいい面を認め合って、建設的な批判ができればいいのですけど、結構激しい批判になっちゃうことはあるよね。アメリカではホームレス問題について「ホームレス産業」ということが言われていて、つまり、お金はいっぱい出るんだけど、ほとんど団体の職員の給料に消えちゃって、現実の困っている人のところには半分以下しかいかないということが起こっている。それだったらお金を全部野宿の人たちにあげればいいじゃん、ということがあるんですけど、日本でも引きこもりとか母子家庭とかいろんな自立支援ができたので、同じ問題を抱えていくだろう、そこはお金を受けている運動として大きな問題となっていくと思います。

 さきほどジェンダー問題が出たけれども、運動の中で何が問題になるかというと、まずお金とジェンダー問題。100年前に夏目漱石が『こころ』で、主人公の1人の先生が、「君、人間というのは何で変わると思う? 金と女で変わるんだよ」と言って、それを聞いた学生は「しょうもな!」と思ってがっかりするんだけど、100年たっても変わってないんですよ。結局、ジェンダー問題と経済的問題で運動がボロボロになっちゃうことはよくあるので、何も変わっていないな、と。

(※ 生田追記:この箇所、記憶まちがいで、原文は「金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ」でした。すみません。『こころ』は、親戚が金のことで問題を起こしたように、先生が「お嬢さん」のことで問題を起こす、という構成ですが。)


 『こころ』について言うと、『こころ』のテーマで最大の謎の一つは、乃木将軍の殉死だったんだけど、このナショナリズムの問題、これは最大の問題の一つで、ナショナリズムが絡むと運動がたちまち変質していくということはずっと続いていますよね。古くは左翼の転向。女性運動の転向もありましたけど、経済的問題とジェンダー問題と国家の問題というのは運動の中に根深くあって、我々は常にそれに問われているんだという感じがあります。



→⑤の1 学ぶ場がない!





※ 2023/11/25 一部加筆・修正しました。



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