栗鼠の親子:一月 中編


 あれは、暑い夏の日だった。
 
 先に眠りについた妻を撫でていた手を、そっと退けて、いそいそとリビングへ行く。
 煙草、携帯灰皿、スマートフォン、家の鍵、小銭、と、ひとつひとつ確認するようにポケットに詰めていく。
 サンダルを履きながら、下駄箱の上に置いた携帯用の虫除け器具を持ち、玄関を出た。
 夕立のせいか、マンションの廊下は湿度が高く、まとわりつくような空気が充満している。

 マンションを出て、お気に入りの缶コーヒーを買い、小さな橋へと向かった。
 人もまばらなこの時間、時折すれ違う帰路を急ぐ人たちは暑さに奪われた体力を振り絞って、不機嫌そうに歩いている。
 橋の真ん中あたりで、いつものように煙草を取り出し、火を着ける。
 ふーっ、と深呼吸をするように吐き出した煙は、夏の暑い夜に蜃気楼のようにゆらゆらと、そして消えていく。
 見上げる夜空は、都会の灯りに負けぬ輝きを星でいっぱいで、真ん丸の月が淡白い光を放っている。
 陽が沈んでも冷めやらぬ熱気を拭うように、私はじっとりとしたおでこを拭うと、冷たい缶コーヒーに手をかけた。

 と、同時に、ポケットの中でスマートフォンが震え出す。
 メッセージでも届いたかな、とそのまま缶コーヒーの蓋を開けようとするが、鳴り止まない。
 こんな時間に誰だろうと思い、片手で煙草と缶コーヒーを持つと、空いた手でスマートフォンを取り出した。

『着信:ケイタ』

 珍しいこともあるもんだ。懐かしい名前に、そういえば故郷の夏の夜も、じっとりとしているのに星が綺麗なこんな夜が多かったな、などと思い出しながら、電話に出た。

「もしもし。」
「おじさん。」
「ケイタ、久しぶりだなあ。どうしたんだ?」
「オレ、頭の中、ぐちゃぐちゃで、どうしていいかわかんなくなっちゃった。」

 思っていたより、太く変声したその声は、不安定で今にも泣き出しそうで、そんな言葉に私は驚いて缶コーヒーを落としたのだった。


 ケイタは恋をしていた。
 それは、人が誰しも経験するような、甘くてすっぱいような、青春の恋だ。
 相手は、ひょんなことから知り合いになった年下の女の子。
 友人が多く、明るくて優しい気立てが良い子で、悩みなんか何ひとつなさそうな子だったらしい。
 それでも人というのは何かしらの悩みを抱えているもので、片親だった彼女は母親との関係で悩んでいたそうだ。
 ケイタも同じく片親だが、母親――我が姉とは仲良くやっている。
 それを知った彼女はケイタに相談したらしい。
 どうすれば母と仲良くできるか、と。どうすれば母と話ができるか、と。
 それはケイタ自身が少し悩んでいた時期もあって、自分なりの考えがあった。
 勇気を出して話してみたら聞いてくれる、と。お母さんに時間がないなら少しでも手伝えばいい、と。
 幸いにも彼女の母親は、ケイタの母親のように、子のために生きているような人だったのでうまくいった。
 そして、彼女は彼を尊敬するようになったのだろう。
 一人っ子の彼もまた、頼ってくれる存在に庇護欲が満たされた。
 若い時の時間の流れは長いようで早く過ぎ去っていく。
 それが恋心に変わるのに幾分もかからなかった。
 彼女からの告白を受けて、恋などしたこともなかった彼は、初めて自分の恋心に気付く。
 そして恋人という関係に発展していった。

 しかし、問題はそこからだった。
 何事にも興味が長続きせず、勉強も「そこそこでいい」と学年の真ん中くらいの成績をキープしていた彼は、見事に、華麗に、当然のようにドツボにハマった。
 成績はガタ落ち、赤点を取るようになり、寝る前の電話の時間は伸びに伸びて朝寝坊をする。
 高校に入ってから始めたバイトは、彼女と会いたいがために辞めてしまう。
 そして極め付けは、彼女の恋愛歴と交友関係の多さだった。
 年上の男性と付き合うことの多かった彼女は経験豊富で、同じ年代の男には刺激が強い。
 過去の男に負けじと学生には不釣り合いなデートをすれば、せっかくバイトで貯めた貯金も減っていく。
 彼女自身は「無理なく私達らしく付き合おうよ。」と言ってくれるものの、それではケイタの気が収まらない。
 次第に友人たちとの付き合いも減っていった彼は、さらに彼女にのめり込む。
 それはそれとして、彼女はせっかく仲良くなった母親とのコミュニケーションや、既存の友人たちと遊びにいくことも多々あるわけで、それで時間を多いに余らせた彼は、持ち前の聡明さから悶々と考え、恋心と嫉妬心と情欲でよくわからないことになってしまったのである。
 次第にケンカも増えていく。
 それでもお互い、恋心はあるわけで、離れることもできずに二人揃って病んでいく。
 彼女の方は、経験の多さからある程度のコントロールはできているらしく生活にも学業にも支障が出るほどではないようだが、彼は違った。
 悶々とした葛藤は心を蝕み、ケンカが絶えないことに憤り、お互いの生活があるのは理解していても感情が追いつかないため、話し合いの時間さえ少なく感じて、落ちていく。
 昼夜逆転を繰り返し、目は虚、学校には行きたくない。
 それは、底のない奈落だ。
 若かりし頃、一度は経験するような、恋の落とし穴だ。
 私はそれを知っている。
 底についたと思っても、実は二重の落とし穴。
 大人が「若い頃はよくある。」とばっさり切って捨てるような、二つ目の落とし穴があることを。
 そして、ケイタはしっかりと一つ目も二つ目も真っ逆さまに落ちてしまった。
 
 ケイタは言う。

「オレ、おかしくなっちゃったよ。自分が怖くて。」

 気付いたきっかけは、親子喧嘩だった、とのこと。
 仲睦まじい親子と言える、ケイタと我が姉もケンカくらいはする。
 しかし、そのときは様子が違った。
 我が姉は自慢の息子の変容を目の当たりにして、日々の疲れとストレスで追い詰められていったのだろう。
 よくしていた会話はなくなり、急にバイトをやめ、オシャレをしだし、夜は電話をしている。
 学校から遅刻の電話が届くだろうし、成績が落ちればその連絡だっていくだろう。
 家事の手伝いもなくなり、少しづつ少しづつ、生活が、心が荒れる。
 そんな折に、姉はふと「最近どうしたの?」と声を掛けたそうだ。
 ケイタは答えた。ぶっきらぼうに。「別に。人間関係で悩んでるだけだよ。」と。

 それが、よくなかった。
 姉は、堰を切ったように問い詰めた。
 なぜ相談してくれないのか。こんなにもお前が落ち込む人間とはなんなのか。お前の人生に必要なのか。
 たった二人の親子に不和をもたらすような存在なのか。そんなので悩むくらいなら、その人はいらないでしょう。

 弟である私の目から見ても、姉は息子、ケイタを溺愛している。
 元から、女性らしいというか、乙女ちっくで夢見がちな姉は、恋愛絡みで痛い目に会うことが多かった。
 私と干支が一回りも離れているものだから、私から見てもしっかりしていたし、真面目でひたむき、それでも何処か情熱の注ぎ先を探しているような、そんな姉だった。
 高校卒業後に就職した姉は、しばらく家に寄り付かなくなって、私が気付いたときにはケイタを授かっていて、あれよあれよと言う間に結婚して、離婚した。
 そんな姉は、「私の責任なんだから。」と、ケイタに何不自由させまいと奮闘していたのを知っている。
 だからこそ、そうやってきつい言い方をしたのだろう。
 もしかしたら、ケイタが恋に夢中になっていることにも気付いているのかもしれない。
 そうして、過去の自分と重ねて、姉も怖くなったのかもしれない。
 
 自分の意思と決意とは反して、すごいスピードで違う方向性のことをやっていることへの焦り。
 気付いたときには、真逆で途方に暮れてしまう。

「オレ、かっとなって、うるせえな!ほっとけよ!って。怒鳴っちゃって。」

 母の漏らした一言をケイタは聞き逃さなかった。

「ママ、泣きながら、なんのために…って俯いちゃって…。」

 なんのために。
 そこにどんな思いが込められているのか、私には想像もつかない。

「オレ、生まれてこないほうがよかったんじゃないかな…。」
「そんなわけあるか!!!!!」

 思わず、大きな声が出た。
 どれだけ、お前が生まれてきてくれて嬉しかったか。
 どれだけ、お前が私に楽しい時間をくれたか。
 あの書道の時間がどれだけ楽しかったか。
 大人の都合で苦労しただろうお前に何もしてやれないことに、どれだけ苦心したか。
 子どものできない私にとって、お前がどれだけ気付かせてくれたか。
 どんなことを思ってか、知らないけれど、こうして電話をくれたことがどれだけ嬉しいか。
 
 姉の気持ちも、ケイタの事情も、私は全てを知らない。
 だけど、これだけは言えた。
 ありがとう。
 愛しい、我が甥よ。
 生まれてきてくれて、ありがとう。

 気付けば、ケイタは声をあげて泣いていた。

 煙草を取り出し、火を着ける。
 呼吸を整えるように、深く、いつもより深く、吸う。
 吐き出す煙は、浅く、小さく。
 すっかり常温になった缶コーヒーで喉を潤すと、額の脂汗を拭った。
 さて、こんなにも頼ってくれているんだ。甲斐性を見せなければいけない。
 高校三年生。半分大人で、半分子ども。私にとってはまだまだ可愛い子どもで、大切な甥。
 ならば、大人として、叔父さんとして甲斐性を見せるのが、私の役目である。
 終電も終わり、街の光がぽつぽつと消え始め、星と月は、一層輝いていた。

「ケイタ。ケイタにとって大事なものってなんだ?」
「大事なもの?」
「大切にしたいもの。」
「彼女とか、家族。ママや爺ちゃん婆ちゃん、叔父さんのことも。みんな好きだし…。」
「ありがとうな。俺も、ケイタが大事だよ。」
「うん。」
「彼女も、ママも爺ちゃん婆ちゃんも、ケイタのことが好きだし、大事なんじゃないかなあ。」
「そうかな。オレ、好き放題やってるし。」
「みんなが好き放題やってたら、ケイタはみんなのこと嫌いか?」
「ううん、たぶん、好きだと思う。」
「みんなが悩んでたら、どうしたい?」
「心配だし、力になってあげたい。」

 あっ、と、ケイタが声を漏らす。

「ママ、心配してたんだ。オレ、彼女と離れろって言われてるだけだと思ってた。それだけじゃないんだ。」
「そうだな。」
「それも、ママに謝らなくちゃ。でも…。」
「言いづらい、か。今、外なんだろう?俺からママに連絡してもいいか?今、ケイタと話してるって。」
「うん。近所の公園。お願い。」

 素直で、いい子に育ったと思う。
 人を思いやることができて、温かい心の持ち主。
 でも、きっとそれは、私達、周りの大人が忙しなく動いていて、頼りなかったからなのだろう。
 この子がしっかりしていたのは、それを埋めるようにしてきたからなのだろう。
 
 姉にメッセージを送る。
 
『今、ケイタと電話してます。色々話を聞いてる。ちょっとすれ違っただけだと思うよ。心配だろうけど、家に帰るまで通話繋げておくから、もう少しだけ我慢してほしい。近所の公園にいるみたいだから、あんまり心配なら無理しないで迎えにいってあげて。』

 すぐに、返信が届いた。

 『ごめん任せるお願い』

 姉も、余裕がないのだろう。

「連絡、しておいたよ。」
「うん。」
「さて、難しいな。」
「難しいよ。」

 それからは、二人でうんうん唸りながら考えた。ああでもない、こうでもない、ああしたらどうか、こうしたらどうか。
 大切な人を大切にするにはどうすればいいのか。
 自分の感情はどう捉えたらいいか。
 自分を知って、他人を知って。
 当たり前の日常は、どうやってできているのか。
 愛情って、何なのか。
 言葉って、どうしてこうも伝わらないのか。
 気付けば空は白みはじめ、朝が来る。
 そうして出た結論は、至極、単純なものだった。

 自分の感情は自分のものだ。
 だから、他人に押し付けてはいけない。好意も悪意も。だからこそ、想うことは自由なのだ。
 それを受け取ってくれる人に感謝を忘れない。

 人にはそれぞれ生活がある。
 自分を大事にすることは、自分を大事にしてくれる人を大事にすることに繋がる。
 だから、生活を疎かにしてはいけない。
 やるべきことをやり、したいことをする。
 それを支えてくれる人に感謝を忘れない。

 言葉は難しい。でも言わなければ伝わらない。
 人にはそれぞれ自分の中に辞書がある。
 一口に「りんご」といっても、それが真っ赤なりんごなのか青いりんごなのか、甘いのか少しすっぱいのかはわからない。
 だから、言葉を尽くさなければいけない。
 尽くしてくれる人、聞いてくれる人に感謝を忘れない。

 一緒に生きるということは、一緒に生き続けるということである。
 どんな関係でも、私達は「この人と共に歩む」ことを選択している。
 それは、片方だけではなく、きっとお互い選択しているから、続ける努力を忘れてはならない。

 関係を作るのは、時間と順番が重要だ。
 そしてそれを周囲に理解してもらうのなら、時間と順番はもっと重要だ。
 大事にしたいなら、認められたいなら、しっかりと周知すべきだ。
 それを知っている周りの人は、きっとその関係に問題が起こったとき、力になってくれる。
 
 一人で悩まない。
 世の中にはきっと、自分の苦境に手を貸してくれる人がいる。
 それを諦めて一人で悩むとき、どこまでも深い奈落に落ちてしまう。
 助けて、と声をあげることは悪いことじゃない。
 だって、私達のように、人に頼られて嬉しいと思う人たちがいるから。
 
 人は、一人では生きていけない。
 どこかで誰かに支えられている。
 今まで関わった人たちに、教えて、教えられて、そうやって紡がれた今がある。

 そういったことを多く語り合って、物事を整理する。
 そうすると、問題というのはだいたい簡単で、どうすればいいかがわかってくる。

 ケイタは、私の拙い言葉を一生懸命に聞いて、その声はどんどん真剣見を増していった。

「オレ、とりあえず帰って、ママに謝る。そんで、学校行く。今日はちょっときついから寝たいけど。そうやってちゃんとママに言うよ。」
「そうか。そうだな。いいと思う。」
「彼女にも、少し考えてから、謝ろうと思う。」
「なんて言うつもりなんだ?」
「焦ってごめんって。もっとゆっくりにするから、一緒にお互いが大事なものを大事にできるペースを考えたい。もっと教えて欲しい、って。」
「うん。がんばろうか。」
「うん。」

 そして彼は、あっ、と声をあげる。

「そっか。オレ、焦ってたんだ。うまくできなくて。そっか。焦らなくていいんだ。ゆっくりでいいんだ。」

 そう言ったケイタの声は、陽が上り始め、白みがかった朝焼けと紺碧が織りなすグラデーションを見せる空のようにどこまでも澄み渡っていた。

 きっと、彼の夜は明けたのだろう。

 
 憑き物が落ちたように話すケイタは、私との空いた時間を埋めるように他愛無い話をしながら家路に着く。

「あっ…。ママ…。」
 
 もうたどり着く、というところで、電話越しにケイタの呟きが聞こえた。
 そしてすぐに、物音と『ケイタあ、ごめんねえ。』と泣きじゃくった姉の声がする。

「オレも、なんにも考えられてなかったから…ひどいこといってごめん。」

 それを聞き届けて、私は黙って、通話終了のボタンを押す。
 メッセージアプリを開き、ケイタに『話せて嬉しかった。ありがとう。また話そうな。』と、姉に『時間かかってごめん。もう大丈夫だと思う。ゆっくり話し合ってほしい。姉さんも、あまり一人で思い詰めないで。』と送り、ポケットの中にしまった。

 やれやれ、と思う疲労感と、これでよかったのだろうか、しっかりできたのだろうか、といった一抹の不安が心を覆う。
 煙草を一本取り出し、安いライターで火を着ける。
 気力を取り戻すように、深く吸い込み、余計な不安を煙と共に吐き出す。

 見上げた空は、すっかりと陽がのぼり、雲一つなく青々としている。
 帰って、この煙草と汗でひどいことになった身体をシャワーで流すとしよう。

 妻はまだぐっすりと寝ていてくれているだろうか。
 私が一晩を賭して語った人生の哲学を、早く話したくて堪らなくなり、煙草を携帯灰皿に推し消して、いそいそと家路につくのであった。

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