【完全版】 青森の救世主 (下)
会計の際に「……ワインを頼まれたんですか?」と店員と一悶着になったり、車に乗る前に彼を撮ろうとして「写真」の概念を伝えるのに苦労したり、幾つかの騒動はあったが俺たちは車に乗り込んだ。
「えぇっと……狭い海と広い海とがあるんですが、どっちに行くんですか」
「広い方です。おっきぃ方さ行ってくだせぇ」
俺は胸をなでおろした。もし狭い海、日本海へ行くと言い出したら相当に飛ばさねばならない。大平洋ならここから90分ほどの距離だ。日暮れには着く。
俺は再びレコーダーのボタンを押し、彼へのインタビューを試みた。
世界の危機とは何か、どんなものなのか、それは人類が信仰を持たぬために起きるのか?
ところが男の返事は、要領を得ないものばかりだった。
詳細は省くが簡単に言うと、「うまく説明できない」というのが答えだった。
「オラも思いがけねェ時に降りてきたンですけども、神の言うとごろの『終わりの日』はまだ来てねェんですよ、ハイ」
仕方なく話を訓示や人生論の方へと向ける。
戦争、国の対立、貧困、格差、人心の荒廃……怒るべきことはいくらでもあるはずだ。
しかしこちらも、面白い答えは返ってこなかった。
「よいことをしましょう」
「悪とは外側でなく心の内側から出てくる」
「腹を立てないように」
「神を信じ、隣人を愛しましょう」
そのようなことを、ひどい訛りと共に語るのである。
俺は聖書は通りいっぺんしか読んだことがないが、これではそこらへんにある標語やキャッチフレーズと大差ない。記事にするにはもっと過激な、あるいはヒネりの効いた言葉が必要なのだ。
これでは、記事にならない。
車内は妙に静かになった。
時々男が「大丈夫ですかのぃ?」「間に合うですか?」と心配そうに聞く。俺はそのたび大丈夫です、間に合います、と答えていたが、いい加減うざったくなってきた。
対向車のいない田舎道をひたすらに走っていく。
と、また男が口を開いた。
「あの、あンだの方は、何かご用事は?」
「ありますけど、まぁほら、“世界の危機”と比べたらね」
「そいはそうですけンど、大丈夫ですか?」
「まぁ、大丈夫ではないですね」
俺はうっかりそう口走ってしまった。もう遅かったが、唇をぴったり閉じた。
青森に戻ってきた理由、それは言いたくも、改めて考えたくもないことだった。
男は大変にすまなそうな顔をした。
「あや! それは申し訳ねぇごどを……」
「いや、いいんです」
「いいんですかね……?」
「いいんですよ」
「オラを海まで送り届けでがらでも、それ間に合いますが?」
「いいんですって!」
思わず大声が出た。
その後しばらく、俺と男は一言も口をきかなかった。ただ男はちらちらと、俺の横顔に心配そうに目をやる。「大丈夫ですか」とでも言いたげに。
その視線が、俺の心をちくちく刺激した。
肺の奥から、大きく溜め息が出た。
行きずりの謎の男になら話してしまっていいだろう、と俺の中の天使が囁いた。あるいは悪魔だったかもしれない。
長い長い、誰も通らない田舎道の先を見つめながら、俺は語りはじめた。
「──親父が倒れた、って、連絡がありましてね。おふくろから」
そう切り出したものの、男はただ黙っていた。
「──酒は浴びるように飲む、タバコは山と吸う、旨いものはたらふく喰う。しかも運動なんてまるでしない。
そんなことを何十年と続けていた親父でね。そりゃあ体も壊しますよ。まぁバクチで家を傾けたりしなかった点はまだマシでしょうが。
そのくせ子供には真面目さを強制する男でね。俺の趣味や夢に口出しするわけですよ。
そんなもんじゃなくもっと健康的な趣味を持て、それは男一生の仕事じゃあない、とかなんとか……時代遅れの人間だったんでしょうね。
この青森っていう町の薄暗さも苦手でした。オカルト好きだけど、この灰色の、田舎特有の、よどんだ空気を吸い込んでると、ここから抜け出せなくなりそうな閉塞感を覚えたもんです。
十八で東京に出て、そこから色々やって、ほら、例の『ライター』、物書きになりました。
十八から今に至るまで、一度も故郷には帰ってません。逃げ出したようなもんですからね。母親とはごくたまに連絡をとってましたが。
で、まぁ、この歳になって、昔ほどの体力もなくなり、仕事の先行きも暗くなってきて、心身ともに弱っているところに母親から『お父さんが倒れた』って、教えられましてね。
あんな親父どうなっててもかまやしない、葬式にだって行くもんか、と思ってたんですが……何故かこの、」
俺はハンドルを叩いた。
「オンボロの車に乗って、こっちまで走ってきてました。実際、親父と再会するかどうかはわかりませんけどね。
それで、帰郷ついでに有名なスポットを拝んでおこうかと思って出向いたら、そこにあなたがいたと……そういうわけです」
胸に溜め込んできたものをあらかた吐き出して、どことなく、すっとした気分になった。男がただ黙って聞いていてくれたせいもあるかもしれない。
男はしばらく喋らなかった。俺の話に何か思うところがあるらしかった。
やがて、ぽつりと呟くように聞いた。
「お父さんのお加減は、よぐねぇんですか」
「……あまりよくないみたいです。今日か、明日か、明後日か……」
「…………あのう、こう言うのも何ですが、もし時間があっだら、オイが行って、癒してあげれだがもしれねぇんですが……」
俺は虚を突かれた。男の顔を見たが、彼はいたって真面目な顔をしていた。
彼は本気なのだった。本気で、「治してあげられたかもしれない」と言っているのだ。
この男が本物か偽者か、あるいは正常なのか狂っているのかは関係なかった。
普通とは違う形ではあるが、心からいたわってくれているのだということが伝わった。
「……いえ、ありがとう。その親切な一言だけで十分です。もし親父に会うことがあったら言っておきますよ、知り合った人にいたわってもらった、と」
「…………あなだ、いい人ですね」
「そうでしょうか?」
「いい人です。オイにはわがります。エェ、それで十分です。お父さんもね、大丈夫ですよ。会えますとも。エェ…………」
それからまた、車内は静かになった。
先程の沈黙とは別の、穏やかな静けさだった。
海と砂浜が赤く染まっている。
終末が来たのではない。ただの夕焼けである。
俺も男も車から降りて、水平線にかかった沈みかけの太陽を眺めた。
「やぁ、間に合いましたね」
「ヘェ、ありがどうございました……」
男は砂浜の上でこっちを向き、頭を下げた。
「こいで神の言ったごども達成できます」
頭を下げついでに、足元が見えたらしかった。サンダルを脱いで、上着も脱いだ。その二つを俺の方に差し出した。
「これ、ありがどうございました」
「いえ、いいんです」
俺は上着の方だけを受け取った。
「こっちの履き物も……」と言うのに、手を振った。
「いいんですよ。差し上げます」
「あやァ、いいんですか?」
「高いもんじゃありませんし、あげますよ。それに、少し海に入られるんでしょう」
到着前に「どうやって世界の危機を救うのか」と聞いたのだ。
彼は言った。
「チョッコシ海に入って、ほいで、待ちます」
「何を?」
「危ないモノが来るのを」
「特別にこう、何かされるんですか?」
「そのあだりは、その時になっどわかるど思います」
まったく、最後まであやふやな答えだった。
「本当に、ありがどうございました」
男はもう一度ぺこりと頭を下げてから砂浜を歩き、そのまま海に入り、海面が膝のあたりに来るまで進んだ。
俺は普通のスニーカーで来ていたので、海には入りたくなかった。
「あのう!」俺は離れた場所に立つ男に声をかけた。「その、危機が去るまで、ここで見ていてもいいですか?」
「えぇですよ!」彼はちらりと振り向いて大声で答えた。「危険はねぇど思いますがら!」
波が来て、波が去る。
単調な波の音が繰り返されている。
真っ赤な夕陽に向かって、男はただ立っていた。
ふと彼の手を見た。拳が固く固く、握り締められている。爪が食い込んで血が出そうなくらいに。
その力の入りようを見ていると、妙な気分に襲われた。
この夕陽、いつもの夕陽よりも、一段と赤いような、そんな気がするのだ。
東京の夕焼けと青森の夕焼けが違うのはわかる。だがそれにしても、この赤色はあまりに毒々しいように思われてきた。
沈んでいく太陽の上に漂う雲も、どことなく黒くいびつに感じる。寄せて引く波も、獣が歯を剥いているようだ。
男の前に広がる夕暮れが、ひどく邪悪な光景に見えてきた。
男の曖昧な話に感化されたのか。久しぶりの故郷の海に心が揺れているのか。
あるいは、本当に──
俺はポケットからデシカメを出した。
記事に使うとかどこかに売り込むとか、そういうことは考えなかった。手が勝手に動いていた。
海に立つ男を中心に据えて、夕焼けを迎え撃つような構図を狙った。
指が一度だけ、ボタンを押した。
俺は脱力したように腕を下ろした。
一瞬、写真を撮ったらもういないのではないかとの考えがよぎったが、彼はまだそこにいた。
「あのう!」
俺は再び声を上げていた。
「俺は、俺は親父に……死にかけてる親父に、会った方がいいと思いますか?」
彼は答えなかった。振り向きもしなかった。
彼は背中を向けて、ただ沈黙していた。
だが、その右手がゆっくりと、ゆっくりと上がった。
固く握られていた拳が開いていた。
手が左右に、小さく振られた。
その意味がわからずもう一度声をかけようと口を開いた瞬間、海から強い風が渡ってきて俺の顔を叩いた。俺は思わず顔をそむけた。魚の腐ったような、生あたたかい、いやな風だった。
かすかな気分の悪さを覚えつつ、俺は海の方へと目を戻した。
そこにはもう、誰もいなかった。
どこを見渡しても、海にも陸にも、あの男の姿はなかった。
「……え? あれ……?」
男にやったサンダルが左右とも、おだやかに暗くなっていく波の上に浮いていた。
濃い赤色を越えた空は薄く淡く朱色に染まり、先程まで張りつめていた邪悪さは消え失せていた。
おおい、と叫んだ。
おーい、どこに行ったんですか?
おーい……!
おーい…………
俺は叫びながら、彼の名前を聞くことを忘れていたのに気づいた。
どう名乗るかはわかりきっていた。しかし、俺が彼をどう呼べばいいのか、知っておくべきだった。
そしてまた俺も、彼にきちんと名乗っていなかったことにも気づいた。
呼び名も、呼びかけ方もわからないまま、俺は暮れていく砂浜でおおい、おーい、と、声を張り上げ続けた。
海岸に停めたオンボロに車中泊した翌日、俺は親父に会いに行った。
驚いたことに、入院はしていたものの親父は元気だった。
さてはおふくろが大袈裟に言いやがったなと疑ったが、看護師や医者に挨拶すると「本当に昨日までは意識がなくて」「明日か明後日かという状態で」と答えるのだった。示しあわせて嘘をついているようには思えなかった。
「おう」
ベッドに身を起こしていた親父は言った。
20年ぶりに会う息子にそんな挨拶もないもんだ、と思いながら、俺は言った。
「おう」
それから5分ばかり喋った。型通りの父と子の会話だった。
「じゃあ……あんまり酒飲むなよ。タバコもやめろよ」
「おう」親父は頷いた。「ぶっ倒れた時はだいぶ苦しかったからな」
「また連絡するよ」
「おう」
「元気でな」
「うん」
「……あぁ、そうだ。知り合いがさ、親父が倒れたって聞いて、『お大事に』って、言ってた」
「そうか、わかった。その人に会ったらな、『ありがとう』って言っておいてくれ」
「……うん」
「その人はあれか? 東京の友達か?」
俺は少し考えてから、こう答えた。
「最近知り合った地元の人でさ……いい人なんだ」
グッと、胸の真ん中に詰まるものを感じた。
「本当にいい人なんだ」
世界の謎と秘密のニュース オカルティア 2019.10.10
先日お伝えした「エルサレムにキリストが2人復活!」のニュースに、衝撃の続報が飛び込んできた。
驚いたことに、世界各国のキリストに関わる所──埋葬地や墓であると言われる場所、聖骸布の置場所、訪問した地、などなど──に、一ヶ所に一人ずつ「イエス」を名乗る者が現れていたというのである。
それだけではない。撮影された動画や画像を見る限り、彼らはそっくり同じ顔をしていて、同一人物のように見えるのだ!
さらには彼らは示しあわせたように、「世界の危機を救いに来た」と言って山や川や海へと出向き、数日後か当日の朝や昼や夕方に、衆人環視の中、忽然と姿を消したのだ。
以下は動画サイトにアップされた、インドでの様子である。カメラが強風に煽られたせいで「彼」が消えた瞬間は撮影されていないが…………
多くの現地メディアや警察は、国際的な集団パフォーマンスかイタズラ、ないし終末思想に染まったカルト宗教の活動と見て…………
俺は画像を開き、動画を再生した。
映っている男はみんな同じ顔で同じ服装だった。俺が青森で出会った男ともそっくりだった。
ちなみにその日だが、巨大な彗星が近づいていたとか不穏な地鳴りがしたとか、そういうわかりやすい「危機」の予兆は確認されなかったようだった。
おそらく、世界のどこでもそうだったろう。せいぜいが夕陽が赤かったとか、変な風が吹いたとか、そのくらいだったはずだ。
しかし、そんなことはさほど重要ではないように思える。
俺が見て、俺が聞いたことが大事なのだと、そう思う。
男のことは記事にしなかった。深い理由はない。まぁ記事にするには膨らみが足りないし、耳目を集めるとは思わない。
おまけに俺ときたら、現地・青森の墓や周辺の写真を撮り損ねたままで東京に帰ってきてしまったのであった。ライター失格である。
その代わりと言っては何だが、俺はあの男を写した写真2枚を現像して、仕事場のアパートの壁に貼りつけた。
一枚目はファミレスの駐車場で撮影したものだ。
短髪に髭の男の顔は精悍だが、変な物体──デジカメ──を向けられているせいか戸惑った顔つきである。
おまけに背景にでっかくファミレスの看板が入っていて、これから世界を救わんとする者の威厳もへったくれもない。
もう一枚は夕暮れの海の中に立つ彼の背中を写している。
毒々しい赤と、重油のように黒い波の中に直立している。腕でも広げていればより神々しく見えるのだろうが、そうはしていない。手は脇に下ろされているだけだ。
危機に堂々と立ち向かう男にも見えるし、浅瀬に立つただの男にも見える。
そういう写真だった。
ただ、この2枚は今の俺にとって、心の支えのようなものになっていた。
俺は東京に戻り、仕事を再開した。
今までは紙媒体にこだわっていたが、そうも言ってられないだろうと吹っ切れた部分があった。俺はウェブ記事のオファーもどんどん受けるようになった。
幼年期から広く浅くオカルトをやっていたおかげで、幽霊から宇宙人までたいていの記事は書ける。濃く深く迫るような代物は限られるが、ネットの記事では「入門編」とか「有名な○○ 10選」のような軽いものの需要がけっこうあるものだった。
青森から帰ってきて数ヵ月後のある日のことだ。編集者が俺の記事の打ち合わせと別口の資料との交換を兼ねて、俺のアパートまでやって来た。
「やぁ、汚れててすいません」
人を迎え入れられる程度に掃除はしたが、どさどさと積んである本や書類はそのままである。
「いやぁ、すごい量だなぁ」彼女は言った。「フリーライターとなると、やっぱりこのくらいは必要なんですね」
広く浅くやってますからね、と謙遜したが、褒められたような感じもある。悪い気はしなかった。
ぺったりした座布団に座って感心したように部屋を見回していた彼女は、俺の仕事机の前に貼ってある2枚の写真に目を止めた。
「その人、どなたですか?」彼女は聞いた。「お知り合いですか?」
俺は写真を見た。
男の顔と、背中を見た。
「……この人とはね、青森で出会ったんです。こないだ里帰りした時にね。それがすごく……おかしな話でね。変すぎて、信じてくれないかもしれませんが……」
「いえいえ! 私もこういう本の仕事をしてますから、変な話や不思議な話は大好きなんです」
彼女は身を乗り出してきた。
「聞かせてもらっていいですか?」
はて、どう切り出せばいいものか、と逡巡した。
俺はまた写真を見た。
男の顔と、背中を。
彼の朴訥な話し方と、真面目な態度を思い起こした。
それで、飾り気なく、隠し立てもせず、ただ感じた通り、思った通りに話そうと思った。
「この人は、救世主なんです」
俺はそう語りはじめた。
「この人はね、世界を救ったんですよ」
【完】
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