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初めてキメた技はあれだったのかも。

生後10ヶ月で患った川崎病、当時はまだまだ未知の病であり、母は調べ物をしたりセミナーに出かけたりと、それはそれは大変な思いをしたと思う。
現在ピンピンした中年として私が過ごせているのも、他ならぬ母のおかげだと思う。

前回書いた、病院での定期検査であったり、激マズ薄茶色の睡眠薬をうっすらと思い出しはするものの、これといって病後に日常生活でしんどい思いをした事が無かったように思う。
小児喘息持ちだったので、どちらかというとそちらの方がしんどかったという記憶が強いせいかもしれないが。

小さなジャンボ尾崎ヘアの私も、年長さん頃にはこましなマッシュルームヘアに変貌を遂げるが、性質はさして変わる事もなく、男の子さながらのヤンチャさに磨きをかけるように成長していった。

そのあたりで特に記憶に刻まれているのは、これまでの人生で一度だけ装着したことのあるギプス。
子供のころには、ちょっと憧れてしまう、三角巾に包まれた、あのがっちりとしたギプスだ。
正確にはそれを装着できるまでの記憶。

原因は右肘の骨にヒビが入ったことによるのだが、あの日アクシデントが起こり、翌々日にギプスを着けてもらえるまでの出来事は、半日ほど丸々覚えているかもしれない。

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その日も元気に登園した私は、自由時間に入ると体操教室の時に使う鉄棒に目をつけた。
はじめはお決まりの前回りや逆上がりを何度かやってみるのだが、すぐに飽きてしまった。

「そうだ、乗ってやろ。」

鉄棒を馬のように見立ててまたがる私。一回ぐるりと回転し、少し前屈みでまた騎手のように戻ってくる。
格好良く、大車輪のように連続でやりたかったのだが、その技量は到底無く、一旦鉄棒のてっぺんで止まってから、またぐるりと回るを繰り返す。

それもまた数回で飽きた。どの記憶をたどっても、昔からしっかり飽き性だったなと思う。

「さぁ、降りよう。」

普通なら片足を外して両足揃えてから降りればいいものを、私は何故か左足をクリフハンガーさながらに、命の保険として鉄棒に引っ掛けたままに右足を地に着こうとした。

その時だ。

隣で遊んでいたお友達が、連結ブロックのひとつをマットに滑らせるように投げ、あろう事か私の右足の着地点にピッタリと添い遂げてきた。

その上に片足で着地した私は、添い遂げられたブロックと共に時速120キロ(と思われる)ほどのスピードで回転した。
マットに打ち付けられそうだった半身をとっさに守ろうしてくれたのは、何を隠そう、私の「右肘」だった。
決死の受け身。
右肘一点での、受け身。

そんなスピードでフルパワーエルボーをマットに食らわせたのだから、いくら柔らかい子どもの骨だといっても、信じられないほどの激痛が走った。

泣き叫ぶ。
肘から先がプラプラだ。
おい、どうにかしろ。
とにかく母を呼んでくれ。

ほどなくして母が迎えに来て、そのままタクシーで病院へ直行した。

今はなき、その町医者へ到着。
少し小太りのメガネをかけていた(ような記憶がある)お爺ちゃん先生は、超絶に痛がっている私の手首を持ち、ユンボの操縦でもしているかのように、グイングインと曲げ伸ばしさせた。

はっきり言って、
「何してんだ貴様」
と心の中で叫んだ。
このお爺ちゃんは本当に医者なのか?
その気になっているだけじゃねぇのか?
それぐらいの腹立たしさがあった。

診察の結果、折れているかヒビが入っている可能性があるので、明日、市民病院へ行くようにとのことだった。
信じがたいが、こんな痛みに耐えたにも関わらず、その日はユンボを操縦されただけだった。

その夜は、左手で右手をゆっくりと動かすだけでも激痛が走り、翌日に市民病院でギプスを着けてもらうその時まで、お爺ちゃん先生を恨んでいた気がする。
今はもう恨んではいない。だけど、あれは紛れもなくユンボの操縦やったで。

そう鮮明に思い出すあの日に人生で初めてキメた技。
それはあの時のフルパワーエルボーに違いない。

-つづく-

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