貴方が好きだった小説。

貴方が好きだった小説を憶えている。三島由紀夫『豊饒の海』。貴方と読み合った小説。毎週、貴方の声で貴方の感想を聞くのが僕のささやかな幸甚であった。それなのに、僕はその内容を忘れてしまった。何よりも大切なその心を、換金してしまった。僕は、あの妖艶で蠱惑的な小説を前にしても、不感になってしまった。

無機質な文字列。僕はその裏にある風景や音や彩りをもう掴むことができない。全くの不感。いつからだろう? 文庫本のカバーを見るだけで満足をするようになってしまったのは。いつからだろう? 生卵を投げつけてできたような文字列に時間を割くようになったのは。いつからだろう? 貴方と共有したい物語が更新されなくなったのは?

時間というものは残酷なくらい平等に流れるから、貴方と僕も地球が回った分遠く離れてしまった。僕が貸した本。今は返して欲しくない。返されたら、あの頃の僕がなくなってしまうから。古くなった僕が、今はとても慈しい。嗚呼、心だけは買うことが出来ないのに、僕はそれを売り払ってしまったんだ。

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