おとろし。
昼下がり、街路樹の下のガードレールに腰掛けてコーヒーを飲んでいたら、突然おとろしが落ちてきた。僕はびっくりして、一張羅の白いシャツにあやうくコーヒーを零してしまいそうになった。
「びっくりした」
おとろしは、今にも破裂しそうなシャボン玉みたいな眼球で、じっと僕を睨んでいる。
「ねぇ、僕は神社でいたずらした覚えはないよ」
おとろしを都会で見るのは初めてだ。子供の頃、近所の古く廃れた神社の境内で犬と戯れていると、決まっておとろしが落ちてきた。僕はそれが可笑しくて堪らなく、犬を毎日境内に連れて行っていた。そんな神社でも時折神主がやってきて、都合悪く鉢合わせた際に厭味な注意をされてから、あの神社には行っていない。おとろしに会うのは、およそ十年ぶりという所だ。
「ねぇ、君はどうしていっつも、何も言ってくれないのかい」
おとろしは、あの頃と寸分も違わずに、ただじっと僕をその目玉で睨むだけだ。おとろしは、何の為に僕の前に現れるのだろう?
「君、本当は寂しいのかい?」
僕はおとろしに一歩近づいた。そうすると、やはり風のように消えてしまった。一歩でも近づくと、おとろしは立ち消えてしまう。あの頃も、今も変わらずに。しかし、都会にわざわざ出向いたということは、それなりに意味があるような気がする。都市型のおとろしというものは聞いたことがないし、十年ぶりという歳月も象徴的だ。僕はガードレールに戻り、その意味について考えてみた。そうしているうちに、雨が降ってきた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?