ノート。

『蛍の光』が流れ終わっても、あの客は帰ってこなかった。私は彼が置いていったノートや袖珍本を残して、清掃をした。いつもよりゆっくりと、時間をかけて。

普段は、店全体を見渡して、カフェテリアという一体の生き物を観賞する。一方、フルタイムでアルバイトに入る日は、特定の客に集中して人間観察をする。それが私のささやかな楽しみであり、俗な言い方をすれば「味変」だった。休日の開店直後はいつも人が疎らだ。多くの人が二度寝を試みるくらいの時間だから当然なことではあるし、だからこそそれが漉しのような役割を果たし、観察しがいのある客である確率が高かった。

開店直後にやってきた今日の客は、とても興味深かった。大概、早朝に来る客は昼前に、どんなに長くても昼下がりには満足して退店する。しかし、彼は夜まで店にいて、一度たりとも席を立たなかった。飽きることなく、本を読み、何か書き物をしていた。私は彼が何を耽読しているのかが気になった。彼をそこまで突き動かすものは一体何なのか、知りたくて堪らなかった。しかし、彼の本には、紀元前の大学生みたいにしゃんとしたブックカバーがつけられていた。私の関心は、熱心に書き留められたノートに移った。

彼は閉店の一時間前ほどになって、突然立ち上がった。そして、荷物をもって店を後にした。ただ、テーブルはそのままであったので、お手洗いにいったのだと思った。(本屋に並立しているカフェで、お手洗いが店の外にあった)しかし、彼はそのまま戻ってこなかった。まるで、何かのしるしを残すために振る舞っていたかのように。

彼以外の領域の清掃を終えた私は、その領域に闖入し、おそるおそるノートに視線を移した。私が眼を塞いで叫んでしまうのは、必然のことだった。


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