エスエヌエス。

閾値を越えた繋がりは、かえって人を不安にさせる。


日曜日。競馬中継を見ながら一瞬の享楽に耽っている時、スマホが鳴きだした。厭な予感がする音だった。我々には確かに第六感のようなものが備わっている。例えば、同じ着信音でも、それがgood news(福音)なのか、bad news(言葉にできない)なのかを、独りでに判断することができる。あるいは、スマホが発信者の心拍数を読み取って、着信音に色を付けているのかもしれない。Googleならやりかねない。

それは、誰かが死んだとかそういった深刻な話題ではないけれど、僕を厭な気持ちにさせる雰囲気に充ち満ちた音だった。しかし、高度に情報化された社会に身を置く僕は、仕方なしにメッセージを見る。

メッセージは見慣れないアイコンから寄せられていた。名前を見て、中学の同級生に思い当たる。話したことはあるだろうが、それなりに親密であったのか、成り行きで繋がっているだけなのかは定かではない。卒業して以来、何回か会ったような気もするし、一度も会っていないような気もする。そういった記憶と歴史の狭間にいる人からの急な連絡は、往々にして居心地の悪いものである。しかし、彼女から送られたのは一枚の写真だけであった。

僕はそれを見て、やはり堪らなく不快な気分になった。そこには、僕の親友が映っていた。たった一枚の親友の写真が、なぜ僕をここまで逆撫でするのかは分からない。しかし、僕は孤独を感じざるをえなかった。親友を奪われた? 彼女は僕の弱みを握っている? 僕は彼ら彼女らから隔絶されている?

袖すり合うような再開を果たしたら、こういった気持ちにはならなかっただろう。SNS。僕は確かめるようにそれを繰り返した。エス・エヌ・エス。奇妙な妖怪を呼び出す合い言葉のような響きだ。


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