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ヨロイマイクロノベルその4

31.
満ち欠けが狂ってからはあっという間だった。三日月が垂れて地上へ落ちてくる。一部は夜の冷気で固まり、微光揺らめく山となる。月の兎はすべて暗い宇宙で息絶えた。地球のウサギは空を見上げない。その代わり、地平の先にそびえるクリーム色の山に向かって鐘音めいた鳴き声をあげる。


32.
夕暮れ、俺以外の誰かと恋に落ちたガールフレンドが炊飯器の中に潜る。顔は出ているが丁度いいサイズに収まっている。そこが落ち着くらしい。ただただ狂おしい俺は近寄って頬や髪やまぶたを荒めに撫でたい。けれど、炊飯のスイッチを押してしまうのが怖くて台所の端から見つめている。


33.
ホップステップのあと彼女は消えた。猛スピードのジャンプ中、ワープでもするみたいに。思えば前日から彼女は本番を恐れていた。驚異的な記録が出たはずの砂場はクリーンなままだ。周囲は静まり返っている。スタンドから僕は彼女の軌道と二人の過去未来を捉えようと中空に目を凝らす。


34.
「全部だきしめて」vs「だからその手を離して」。矛と盾マニア垂涎のカードが遂に実現した。歌自慢二人が向き合い、各々、高らかに歌い上げる。二つの音がぶつかり、やがてエネルギーは飽和状態に。刹那、二度鐘が鳴った。歌い手は互いを責め、殴り合う。その勝敗についてはまた今度。


35.
できれば昆布がいい。大量のだしをとって、そこにたゆたっていたい。ゆっくりと冷めていくだしの海に仰向けで浮かぶ。まだ射程の長い陽光をまぶたに感じつつ、まろやかな香りを吸いこむ。誰にも邪魔されない、わたしの春の午後。それが死と生のどちらに近いのか、わからないけれど。


36.
両手にうすピンク色の卵を持って喪の旅へ。早々に一個目がつぶれても中断は無し。右手はとうに乾いている。やがて二つ目も静かに壊れる。もう片方の手のひらから無形のあれが垂れる。湖畔まであと少しだったのに。背負った骨が冷たく重い。泣く間もなく、濡れたところが固まり始める。


37.
「二度、地上に堕ちた私は堕々天使です」。茜色のニット帽の男はそう呟いて、ひどく甘そうなお酒を舌ですくうように飲む。五度目はダダダダダですか。男はこちらの問いに答えず、最後のアンチョビポテトをつまむ。指先がぬらぬら光る。朝から白い稲妻が落ち続け、誰も外に出られない。


38.
春の五限目、社会の授業中に回していたシャーペンが勢い余って窓から飛び出す。グラウンドも超えてやがて消えた。あれから十五年、私の左手に舞い戻ってくる。時空を超えて見事に収まったものの、只今、大好きな人の背中を絶賛おお撫で中。そもそも、なんでこんなに芯が出ているのか。


39.
今も定期的に桃は流れている。ただ、そこは暗渠なので私たちの目に触れることはない。拾われ、割られ、太郎的何かが悪しきものたちを退治することもない。桃は年々縮んでいき、今やこぶし大ほどだ。誰かの暴投で紛れ込んだ野球ボールと並ぶように暗い水流をぱしゃぱしゃ転がって下る。


40.
青き欠片の残りもわずか。女は貴重な一粒をお湯で溶かす。カップ内が早秋の湖のように青く染まる。とうに猫舌は克服したものの、古い記憶が一口ごとに解凍されるため、減りは緩やかだ。唇がゆっくりと開き、湯気が漏れる。失われた嬌声や吐息が空気と混じりながら、微振動をくり返す。


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