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小説 桃の月が弾む

「もうすぐ着きます」
 実家の最寄り駅に着いたタイミングで母にメッセージを送った。電車から降りると三月とはいえ、まだ空気は真冬の様に冷たく鞄からストールを取り出す。帰省は正月以来だから二か月ぶりだ。自宅からここまで電車で三十分の距離なので定期的に帰っている。スマホを見ると早速母から返事のスタンプが届いていた。うさぎがにこやかな笑顔でOKと言っている。

 ただいまと声をかけ、返事も待たず、家に上がる。玄関には写真がいくつも飾られており、二つ年上の兄の家族と一緒に撮った写真が増えていた。一歳になった甥とケーキを囲んで家族が微笑んでいる。居間からテレビを見ているであろう父の「お帰り」という声が聞こえた。母は大きな声をキッチンから響かせる。
「里香ちゃん、久しぶりね。寒かったでしょう」
「大丈夫だよ。これ、後でみんなで食べよう」
 キッチンに行き、百貨店で購入したケーキを母に渡す。
「あら、ありがとう。ところで、明日も休日だから泊まっていくんでしょう?」
「明日午前中に予定があるから帰るよ」
 母の悲しげな表情を見て、慌てて付け足す。
「また、来月にでも週末にランチに行こう」
「そうね、夏に行った点心のお店はどう?実はあの後お友達とも行ったんだけどね」
 楽し気な母の表情に安堵し、耳を傾ける。
「そうだ。夕飯の前にゆっくり見て来たら?お父さんが腰を痛めて大変だったのよ」
 そんな苦労をしてまで出さなくて良いのに、喉まで出かかった言葉を慌てて飲み込む。

 仏間には七段飾りの雛人形が悠然と構えている。日当たりが悪く薄暗いからか、緋毛氈は赤黒く見え全体的に重苦しい。人形達は少女が好む大きな瞳を持つ華やかな容姿ではないし、凛とした顔つきはどこか近寄りがたい。五人囃子はかろうじて分かるけど、他の人形が何をしているかも知らない。精巧な小道具は、人形遊びがしたくなるような親しみやすさはなく、あくまで観賞用の美しさだ。台の下にはあられや菱餅が並べられているが、毎年用意されているのに一度も食べたことがない。私は畳の上に座り人形達と向き合う姿勢になる。三十四歳の娘の為に張り切って雛祭りの準備をする母に対して私は複雑な気持ちを抱いている。

 夕飯はちらし寿司と蛤のお吸い物、私の好物のローストビーフで、もちろん全て母の手作りだ。食卓には三人分のビールと桃の花が生けられた花瓶も並ぶ。
「そういえば、玄関の写真見たけど、一歳の誕生日どうだった?餅を背負ったの?」

 私の問いかけに珍しく父が口を開く。
「重かったみたいで、すごく泣いていたよ。でも、最後はご機嫌だった」「良かった。それにしても食べ物に困らないように餅を背負うなんて不思議な行事だね」
母が、少し興奮気味に口を開く。
「行事と言えば、あの子達、五月人形が必要ないって言うのよ。邪魔にならない小さいもので良いから買わせてって口を挟んじゃった」
 私と父は何も言えず、話を聞いていた。

 食後に、母が珍しく頼みごとをしてきた。雛人形を一緒に片づけたいとのことだった。父は普段よりお酒を飲み居間で居眠りをしていたので、そのまま二人で取り掛かることにした。
「段の解体は、明日お父さんにやってもらうから人形だけしまいましょう」
 冷える部屋で作業をするためにコートを羽織って移動する。
「実は、今年で最後にしようと思っているの」
 母のその言葉に何と返していいのか分からなかった。少しの間が空いた後、母は何食わぬ顔で続けた。
「八段飾るとなると大変だし、場所をとるから、人形供養にでも出そうかなってお父さんと話しているの」
「雛人形って本当は娘がお嫁に行くまで飾るものなんだよね?」
 私が恐る恐る尋ねると、母は笑った。
「違うわよ。女の子の成長を願うためで、結婚は関係ないわよ。とはいえ、もうあなたも女の子じゃなくて、立派な成人よね。里香ちゃんは、反対?来年も飾って欲しい?」
「いや、私は正直どちらでもいいけど」
「そうよね。雛人形は、娘のために用意するものだけど、飾り続けるのは母親のためのものなのかもしれないな。私はいつも、両親を思い出すもの」
 私は、母の意外な言葉に驚いた。
「雛人形は、嫁の親が用意する風習だから、この人形は私の親が選んだのよ。飾る度に、里香ちゃんが産まれた時、喜んでくれた二人の顔が浮かぶの」
 母は、少女の様に嬉々として雛人形に触れる。今年で最後かと思うと、薄情なもので少しだけ寂しさが込み上げてくる。
「ねえ、お母さん。お雛様は飾らなくても良いけど、ちらし寿司は来年も作ってよ」
 照れる気持ちから、私の声はいつもより高くなり、まるで少女の様に部屋に響いた。

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