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小説 私たちの台所

 祖母は私が小学五年生の頃に、亡くなった。それは、物心がついてから初めての身近な人の死で、葬式で私は嗚咽が止まらないほど泣いて、母と母の姉である叔母二人を困らせた。祖母のことが大好きだったし、祖母の家でお盆や正月に親戚が集まって食事をすることがとても好きだった。私には兄弟がいないから、年齢の近い従妹たちが5人も集まって賑やかに過ごすことが新鮮だったから。ただ、祖母の家を思い出すといつも「台所」が頭に浮かぶ。祖母の家の台所は、今どきのシステムキッチンのようなものではなく、居間から離れていた。だから、親戚たちが集まって宴会が始まっても、台所で誰かが食事の取り分けやお酒の準備なんかをしていて、全員が居間に揃うことがなかった。もちろん、その台所にいるのは祖母、母、母の姉たち、そして女である私だった。従妹との、智樹くんや結城にーちゃんはそこにはいなかった。私は母や叔母たちの真似をして、食事をよそったり、お酒を温めたりしていた。忙しなく動く、母たちは台所でつまみ食いをしながら、おしゃべりをしていて、祖父はとうに亡くなっていたので、厳格な雰囲気なんかなかったのに、居間で行われる宴会の場所よりも楽しそうだった。

 玄関のチャイムがなり、インターホンのモニターを覗くと、私の母である清水和子57歳が満面の笑みでいた。
「今開けるから、そのまま上がってきて。」
 私が言うと、
「荷物がいっぱいなの。運ぶの手伝って」
 と、母は言う。私が自室のある3階からエレベータで降りて、マンションのエントランスに行くと、母はスーパーの買い物袋を両手に持っていた。ちなみにその時の母の服装は、ブルーのブラウスに黒いカーディガン、白いパンツをはいていて、外が暑かったのかうっすら汗が浮かんでいる。
「タクシー使えばよかったのに。」
 私は苦笑いを浮かべ、母からビニール袋を二つ奪った。
「タクシー使う距離じゃないでしょ。いつもあなたが買い物して歩いている距離なんだし。」
 袋の中には、野菜や肉の他に、麻婆豆腐の素やすき焼きのたれが入っている。

「健一さん、アメリカに6週間も出張だなんて、すごいね。」
 私の夫である健一が三日目から長い出張に入り、新幹線で3時間の距離の母がうちに長く遊びに来たいと言ったのだ。大学から家を出ており、もう十年くらいになるけど、親との関係は良好で頻繁に実家に帰っている。一人暮らししていた狭い部屋では、母は長く滞在できなかったけど、2LDKのマンションならゆっくりできるし、母がちょうど勤めていたパート先を辞めたところだったから、その母親の希望を承諾した。健一は、神経質どころか、大らかな人なので、自由に過ごして、でもそんなに長く一緒にいたら、喧嘩しそうだねと笑っていた。私は平日は仕事に行っているし、土日もべったり一緒に行動するつもりはなかったから大丈夫じゃないかなと思っている。母は母で、百貨店巡りや観劇なんかの予定を組んでいて、寡黙な父も母と娘の時間を楽しんでと言っていた。
「ああ、これが前テレビ電話で見せてくれた健一さんの選んだ壁時計ね。高いんでしょ?」
 私は母に何でも話すし、母も姉妹が多い中で育ったからか、同性のおしゃべりが大好きなので、私たちはよく他愛のないことでテレビ電話をしていた。
「そうそう、これで10万円近くだよ。まあ長く使えるとは思うけど、変なことにこだわる人だから困るな。」
 私は、母が買ってきた食材を冷蔵庫にしまっており、母は居間のソファでくつろいでいる。

 私の台所は、よくあるカウンターキッチンで、私は食器を洗いながら居間の様子を見ることができる。結婚したときに、食器をすべて新しくし、そのほとんどを健一が選んだ。私自身にそんなにこだわりがなかったのと、健一のセンスを信頼していたから。ただ、共働きと言えど、食事つくりに関しては私の仕事になっていたので、調理器具や調味料にはこだわっている。無水鍋は、社会人になった1年目の冬のボーナスで手に入れたもので、5年以上ずっと使っているが、綺麗に磨いている。調味料にもこだわっていて、よくある味付け済みの液体調味料は使わずに、スパイスを何種類も持っているし、ニンニクや生姜は、冷凍して常備している。毎晩、夕飯で使用した食器を洗ったら、台所のシンクやコンロを簡単に掃除する。今はまだ子供がいないからできることかもしれないけど、台所はきれいにしてから、眠りにつきたい。その代わり、お風呂やトイレは健一が熱心に掃除をしてくれるので助かっている。私自身、台所は綺麗にしておきたいと思うけど、他の場所はどうでもよく感じている。
それは一緒に暮らし始めて5日目の夜のことだった。土曜の昼間に母は来たので、水曜日の夕食時だった。母の作ったクリームシチューが、どうしても食べられなかったのだ。
「真理ちゃん、どうしたの?食欲がないの?」
 母は、心配そうに私に尋ねる。私は、木製の丸形の器に入った、黄白色の液体を見つめる。赤い色の人参やブロッコリー、鶏肉が浮かぶ。木製の器は、温かみがあって、春の終わりとはいえ、少し冷えるこんな夜にはぴったりだ。でも、どうしても頭の中で味が想像されて、口に運ぶ気になれなかった。市販のルーを使っていたことが原因だ。いくら調味料にこだわりがあるとはいえ、カレーライスの時はルーから作るし、時々、レトルトのバスタの素なんかを使うこともあるのに、なぜか抵抗感を得てしまった。当たり前だが、母の料理で育っているので、小さい頃は気にせず食べていたはずなのに。むしろ、そんな自分に嫌気がさす。
「うん。なんだか、体調を崩してしまったのかも。サラダだけ食べようかな。ごめんね。」
「シチューが身体を温めてくれると思うから。無理にでも食べなさい。」
 母は強くそう言い、私はまるで好き嫌いをする小さな子供の様だった。私は、悟られないように何食わぬ顔を装いシチューを一口食べたのだが、驚いたことにそのシチューに味がなかった。全く無味無臭のほんわか温かいとろりとした液体を口に運び続けた。母は、ほっとした様子で、どこか誇らしげに
「シチューはあなたを元気にしてくれるわ。」
 と、笑った。
 
 木曜日の食べ物は、素から作った麻婆豆腐。翌日は、専用の粉と肉ミンチを混ぜて作るハンバーグだった。どちらも味がしなかった。ハンバーグの付け合わせのポテトサラダにも味がしなかった。私の会社は、土日休みなのでこの状況を打破するために、母に私が食事を作ることを提案したが、母にゆっくり休むようやんわり断られた。

 その日、母は紺色のセットアップのカーディガンに、グレイのフロアスカートを履いていた。胸には私が去年の母の誕生日にプレゼントした花のアーチ形のブローチが輝いている。私はと言うと、黒の薄手のニットに、スカーフを合わせ、ベージュのパンツを組み合わせた。結婚記念日に健一が買ってくれたハンドバッグを選び、彼の好みで買ったシンプルなパンプスを履く。母曰く、私は健一に染まっているらしい。健一と出会う前の私は、もっとガーリーな雰囲気を好み、パンツスタイルなんてほとんどしなかった。
「よく健一とランチに行く場所なの。」
 私は最寄駅から4つほど行った駅にあるホテルのフレンチレストランにいる。母が頑固として料理を作ると言い張ったので、せめて土曜の昼間は外食に行こうと誘ったのだ。
「良い感じのお店だね。さすが老舗ホテルだ。」
 母は穏やかな口調でそう言った。私が食事のことで不安定なことに母は、気づいていないようだったが、そういえば母はいつもこんな感じでマイペースだ。レストランは2階だが、坂に面しているため、ホテルの庭につながっており、大きな窓から歩いている人たちが見える。今日は気候がいいので窓は、半分あけられていて風が気持ち良い。都会に位置しているが、広い敷地が見えるため、開放的な気持ちになる。
「真理ちゃん、これ好きでしょ?」
 母が頼んだのは、バジル風味の白身魚のソテーだ。私はバジルがとても好きだけれど、健一が好きではないので、家で作ることはない。私はビーフシチューを頼んだ。
「お父さん、何食べてるのかな?」
 私は不意に気になってそう言うと、母は手を止め、ぼんやりとした口調で答える。
「毎日、スーパーのお惣菜かもね。ほら、お父さんって食にこだわりがないでしょ。」
「確かに。何食べても、美味しいも不味いも言わないもんね。」
「そうそう。だから、私の料理はとっても手抜き。真理ちゃんは違うわよね。」
「そうかな?簡単なものばかりだよ。」
 母は大きな口を開けて食べる。
「だって、あんなにスパイスがあったじゃない。」
 私のキッチンには調味料専門の棚があり、瓶に律儀にラベルを貼り、整然と並べてある。それを眺めるのが私は大好きだ。
「台所って本当に持ち主の人間性が出るわね。」
 母が何気なく言った言葉が心に響く。
「おばあちゃんの台所、覚えてる?あそこはたくさん食器が並んでいて、菜箸なんかも必ず3本あったのよ。親戚が集まるのが何よりもおばあちゃんの楽しみだったから。」
 祖母が亡くなってから、家は取り壊され、台所でみんなで料理を作ることはなくなった。代わりに、親戚で決まった料亭に集まることになったのだけど。
「おばあちゃんは料理作るの好きだったからね。私とは本当に大違い。私は簡単な料理ばかりだし、すぐに市販の味付けに頼るから。」
 私は小さい頃は、本当に気にならなかったのにどうして、ここ数日味付けが気になるのか不思議でならなかった。母との共同生活は、そのほかのことは何も気にならないというのに。
「誰かのため…ばかりに料理作っていると、味が分からなくなるから気を付けてね。」
 母はぽつりと言った。窓の外では、4歳くらいの男の子が正装を着て、走り回っている。誕生日のお祝いが何かだろうか。

 母は予定よりも数日長く、わが家に滞在し、その翌日、無事に健一がアメリカから帰ってきた。三週間の出張だったけど、アメリカの高カロリーな食事のせいか2Kgほど太っていた。私は健一のために張り切って食事を作る。出張から戻ってから私は、バジル味のするジェノベーゼソースのパスタを作った。健一は、久しぶりに食べると美味しいなと驚いた顔をして、全部食べた。

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