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子どもの頃の 家に住みたい。

子どもの頃の、家に住みたい。

小学校6年まで、名古屋市港区土古町の市営住宅に住んでいた。木造平屋建て、6畳間が二つ、風呂は無し、トイレはボットン式、ささやかな庭があった。
この家に、私は、命を救われた。
昭和34年9月26日に潮岬に上陸した「伊勢湾台風」。紀伊半島を縦断し、名古屋を直撃した。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県での被害が大きかったので、この名前が付けられた。死者・行方不明者の数は5,000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事。
当時、小生は、1歳10か月。当然、記憶はない。たまたま市営住宅の抽選があたり、それまで住んでいた名古屋市南区から港区に引っ越した。約1か月後、伊勢湾台風に襲われた。引っ越し先の港区の被害も甚大であったが、それまで住んでいた南区は、もっと凄かった。名古屋市内で、一番の死者を出した。原因は、輸入された「ラワン材」である。高度成長期を迎えつつあった当時は、木材の需要が高まり、外国からラワン材を輸入し、その置き場が、南区に点在、名古屋港の貯木場であった。ラワン材は、直径が1メートル以上の巨木である。それが、台風の高潮の影響で、貯木場からあふれ出し、住宅地を直撃した。直前まで住んでいた南区の周囲の人々は全滅であったらしい。被害者の靴が集められ、「靴塚」として供養され、その供養塔は今も南区に現存する。
たまたま市営住宅の抽選に当たり、1ヶ月前に引っ越して、最悪の事態はまぬがれた。市営住宅の抽選に当たらなかったら、現在、小生は、この世にいない。
引っ越し先の港区も被害は甚大。我が家も床上1メートル以上は浸水。以前にあったタンスに浸水の跡が残っていた。タンスの中にあった、母親の嫁入り道具の着物は全滅だった。近くの中学校に避難する際に、小生は、親父に肩車されて避難したらしい。その時、小生は、「キャッキャッ」とはしゃいてたらしい。親父としては、自宅が浸水し、これからどうしょうと思っている先に、小生が頭上ではしゃいでいるので、さすがにあの時は、涙が出たと後年、語ってくれた。翌日は、台風一過で、雲ひとつない、美しい青空であった。
その後、何度も台風に襲われた。私の住んでいた所は、海抜が低く、おまけに近くを流れている川がよく氾濫した。台風が近づくと、親父は、雨戸にX型に板をうちつけ補強した。近所の家もみんなやっていた。トントンを釘を叩く音を聞くと、幼心に「台風が来るんだな」と思った。大人たちには、台風は大変だったが、子どもの俺には、なんだか胸がワクワクした。床下浸水は当たり前。時には床上浸水の時もあった。床上浸水の時は、近くの中学校に避難した。浸水の水深が深い時は、ボートに乗って避難した記憶がある。避難先の中学校の窓から、校庭を眺めていると、魚が泳いでいるのが見えた。近所の川から来たものであろう。魚が泳いでいるなという記憶が鮮明に残っている。
その家には、11年間住んでいた。今、考えるとよく住んでいたもんだと思う。その後、毎年の台風被害に辟易した親父は、一念発起して台風の心配のない、高台の名古屋市緑区に家を建て、引っ越した。その頃は、川の堤防が造ら、排水ポンプ場も整備され、浸水の被害もほとんどなくなっていた。

引っ越し後、随分経ってから、なんとなく懐かしくなり、かって住んでいた家を訪ねた。木造平屋の住宅は、鉄筋コンクリートの団地に変身しいていた。なんだか、自分の思い出がなくなった気がして、寂しい気分になり、その場でしばらく立っていた。
なんども浸水の被害にあったので、私の幼い頃の写真は少ない。かって住んでいた家の写真もない。私の記憶の中にあるだけである。望むべきもないが、もう一度、子どもの頃の家に住んでみたい。台風は、大変だったけどね。

#どこでも住めるとしたら





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