清水 康夫

清水 康夫

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コウカミへの手紙 ~「朝日のような夕日をつれて2024」に寄せて

鴻上へ 「朝日のような夕日をつれて2024」の公演を知った時、「嗚呼、鴻上は、これで芝居人生を締めくくるのか」と勝手に想った。処女作で終止符を打つとは、なんともお洒落と想ったが、この先も芝居人生を続けるなら、俺の勝手な思い込みなので、すまんという前振りは置いといて・・・。 1981年。お互い大学3年。早稲田大学演劇研究会。キミは「第三舞台」なるアンサンブルを立ち上げ、「朝日のような夕日をつれて」を旗揚げ公演。あの頃の演劇青年のバイブル「ゴドーを待ちながら」をベース

    • 子どもの頃の 家に住みたい。

      子どもの頃の、家に住みたい。 小学校6年まで、名古屋市港区土古町の市営住宅に住んでいた。木造平屋建て、6畳間が二つ、風呂は無し、トイレはボットン式、ささやかな庭があった。 この家に、私は、命を救われた。 昭和34年9月26日に潮岬に上陸した「伊勢湾台風」。紀伊半島を縦断し、名古屋を直撃した。伊勢湾沿岸の愛知県・三重県での被害が大きかったので、この名前が付けられた。死者・行方不明者の数は5,000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事。 当時、小生は、1歳1

      • パンツ一丁で、「ピーピーピー」

        名古屋市熱田区の白鳥庭園正門から、堀川右岸沿いの「千年プロムナード」を南に下る。国道一号線に架かる白鳥橋の下をくぐり、しばらく歩くと、忽然とコンクリートの塊が出現する。「熱田空襲跡の碑」である。昭和八年に築造され、平成四年の「マイタウン・マイリバー整備事業」の新たな護岸の設置により、撤去された堀川の旧護岸壁の一部である。 君は、「熱田空襲」を知っているか。 終戦を間近に控えた昭和二十年六月九日朝、名古屋市熱田区にある愛知時計電機・愛知航空機、住友金属などの軍需工場を標的に

      コウカミへの手紙 ~「朝日のような夕日をつれて2024」に寄せて