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午前3時の音楽室

ここ数日、どんちゃんは夜泣きが激しくなっている。
8か月になるまでは、泣いても夜間に一度くらいで、おっぱいあげたらすぐ寝てくれたんだけど。
体力がついてきて、かなり動けるようになってきたから、起きたら泣くだけじゃなくて、ずりばいで動き回ってしまうので、これまでのように様子見で観察しておくどころではなくなってきた。
放っておいたら、お布団から出て冷たい畳の上に出てしまうから。

一度起きてしまうと、おっぱいでは寝てくれず、2~3時間ぐずぐずと泣き続けることもある。
逆に、楽しそうに遊びだしてしまうこともある。これがけっこう恐怖で、まっくらやみのなか、らんらんとした笑顔でどんちゃんがこっちに何度でも突撃してきて顔をひっ叩いたり髪を引っ張ったりするので眠れないどころか痛い思いをすることになる。
その姿はまるで、はちゃめちゃにかわいいゾンビのようなのだ。ちょっと戦慄。

というわけでここ数日かなりの寝不足感があるので、今後の方向性をかつしくんと相談して決めた。

最近は、赤ちゃんに対しても、ねんねトレーニングと称して、泣いても抱っこしたりおっぱいを与えたりせず、観察しながらもあまり手を出さない方法が人気のようだけど、わたしたちはもうべったりと夜泣きと向き合ってみることにした。
泣いたら、3分待って、泣き止まなければ抱っこやお乳ややさしい語りかけなど。どんちゃんの気が済むまでやるだけ。

だって、こんなにも、求めてくれる期間なんて、ほんの数か月しかないのだから。
暗がりで、涙でふやけたふにゃふにゃの顔でいじらしく泣いているのを見ていると、わたしの胸もいっぱいになる。もちろん、できたら安心して眠ってほしいのだけど、どんちゃんが泣き、わたしがあやしてお乳をあげて、なんとかしてあげたいのだと手を尽くすプロセスには、もうこれ以上ないほどの「愛」が存在している感じ。
そのたびに、わたしたちの間にある安心の回路が太くなり開かれていくという確信があり、それが眠いまぶたをなんとかこじ開ける。

がんばったって、2歳くらいまでの記憶は残らないけれど、どんちゃんが泣いたり起こったり荒ぶったとしても「大丈夫、大丈夫よ」と受け止められた事実はきっと、どんちゃんのねっこに安心感として残っていくと思うから。

寝不足は朝、かつしくんにバトンタッチしてから遠い散歩に出てもらった隙に寝るなどする予定。
2人分担しながらの子育てだからこんな風に余裕をもって立ち向かえるのだと思うと、4年がんばって、今胸を張って二人で贅沢に時間を使った育児ができるのは最良の選択だったと思う。

ほとんど眠っているような、もうろうとした頭で、薄明かりの室内を、重いどんちゃんのお尻を揺らしさまよいながら、夢か空想かもわからない映像が浮かんできた。

それは、もう取り壊されて跡形もなくなった、小学校の音楽室。古くて、ちょっとかび臭いような。壁には日に焼けたベートーベンやモーツァルト、有名な作曲家の肖像画。歌い方の書かれた、よれよれのポスター。
窓際の、古い音のちょっとぼけたピアノが好きだった。今でも、あんなに胸にくるピアノと出会ったことはないくらいに。あのころ、あのピアノのほんの少しこもった音のなかに、わたしの夢想のすべてがあった。
今思えば、あのころ、わたしは現実と夢の境さえあいまいなまま生きていた。学校は大嫌いだった。先生も大嫌いだった。ともだちとたくさん遊んだけれど、どこかでやはりうっすらとどうしてもなじめない何もかもが不気味で恐ろしかった。
窓からほぼ水平に強烈な西日が入ってくる。色褪せたカーテンの向こうにべったりとした逆光の海。太陽の下が、ぎらぎらと刃物みたいに光っている。サーモンピンクの空の上から紺色の粉のような夜が降ってきて、夕暮れは、小学生にとって一日のタイムリミットだから、もう帰らなきゃならない。でも、ただずっとピアノの前にいたかった。
これが、現実に見たものなのかわからない。
こどものころの不確かな脳で、これからどんちゃんはどんな世界を見るんだろう。

寝顔を見る。その教室から遠い遠い所へ、かつしくんと二人で泳いできて、抱いている新品の命のあたたかさ。
これを書いたら今夜も、馬鹿みたいにおろおろと向き合う時間が始まる。

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