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「そういう時代があったよね~」と簡単にふたをして知ろうとしないのはもったいない、というか愚か...?

三島由紀夫、伝説の討論会、東大全共闘、熱量、真実、、

私たちの世代からするとやや近寄りがたいような、ものものしい文字が並ぶ。
(三島由紀夫の小説も読んだことがなく。。すんません)

が、なにか惹かれるものがあり観に行ってきた。

 

結果、とてもおもしろかった。

まず、関係者のインタビューと当時の社会情勢の説明、討論会の記録映像を交互に進行する構成が非常に巧みだった。

そして、(哲学とかの話は難しくてところどころついていけなかったけど)彼らがどんな立場でどんなことを考え、どんな姿勢で討論会に臨んでいるかが見えておもしろかった。
意外と親近感が湧いたし、突拍子もない異世界ではなかった。

あと、三島由紀夫のユーモアセンスね。
単身乗り込む肝っ玉と、冷静に相手の話を聞き丁寧に論を展開する様もすごい。

 

東大全共闘が実は本質的には三島氏と共通している部分があった、という点も興味深かった。

ある人が言っていた。

議論できるということは両者に共通点があることが前提になる。共通点がない相手とは議論すらできないから。

まさにこれだと思った。

 

 

さて、あの頃は日本だけでなく世界的に学生運動が活発だったと、一応薄っぺらいながらも基礎教養として知っている(作品内でも説明されていた)。

 

でも私の同年代で、

学生運動がなぜ活発になり
どんな勢力ができ
何が起こり
何が変わり
何が変わらなかったのか

説明できる人も知っている人も、たぶんあまりいない。
もちろん私を含めて。

 

なんとなく昭和の頃は学生運動というものがあって、大学に立てこもったり反戦運動をしたり警察とやりあったり事件を起こしたり、
そんなヤバいカオスな時代があった、程度にしか認識されていないと思う。

 

 

そして、現代ニッポン。

政治の話は敬遠され、少し社会運動・政治活動チックなものに関わろうものなら、
友人から眉をひそめられ関係が疎遠になることも、リスクとして考慮せざるをえないような世の中。

 

香港でおきた大規模デモにもどこか他人事で、
中学生・高校生・大学生含めた多くの若い世代がなぜあそこまで行動を起こしたのか? 個別の政治的課題への賛否はさておき、

1.そういった情報に関心を寄せる
2.問題意識を感じる
3.具体的な政治的行動を起こす

といった行動パターンへの共感すら、おそらく薄い。

やったことがないしやっていいんだという雰囲気も興味もないし、そういう発想がそもそも湧いてこない気がする。

 

私がフランスに関心を寄せたきっかけの1つもそれだ。
フランスは頻繁にストがあることが有名だが、そういった今の日本にはない土壌に興味がある。

あの頃に学生運動が活発だった国で、日本ほど政治への関わりを敬遠するようになった社会は他にあるのだろうか?

学生運動の記憶とこの敬遠傾向に関係はあるのか?みたいなテーマの話か書籍を、どこかで聞いたような気がする。

 

それこそ「投票に行こう!」みたいな呼び掛けは、よく見聞きし馴染み深いものとなった。
(若者の選挙離れは日本だけでなく他の国でも起きている世界的な問題のような気もするが)

逆に言うと、そのレベルである。

誰かが言っていた。

投票は最も簡単で、最も力の弱い政治参画手法だ。

そうだよなあ。
毎回投票だけしてれば世の中うまく回るかというと、そんなことないもん。

 

 

私の周りについて述べると、自民党が好きではない人が多いので、私も自民党に対するプラスの印象はあまり多くない。

ただ、一口に自民党といっても何十年もの変遷があり、大きな組織だから党内にも色んな派閥や勢力や年代がいて、全員が一様なスタンスを持っているわけではない。

 

これはもっと大きなスケールでも同じで、大きく右と左で語られる政治の世界でもそうだ。

右派、右翼、ネトウヨ、左派、左翼、共産主義、リベラル、、

それぞれの言葉が指す領域、歴史的経緯、性質は、すべて違う(ということだけは私も気づけてきた)。

だから、わかっている人の使う「右/左」と、なんとなくイメージで使っている人の「右/左」には、雲泥の差がある気がするのだ。

 

すべての物事を右か左かの視点からしか語り始められない人は好きではない*が、
それ以前に私は、右や左とはなにか?という本質の部分をまだ自分自身でよく理解できていないと感じている。

* すべての物事には元々政治的な要素が内包されている、というような見方もあると思うのでそれは否定しない。
ただ気を付けたいのは、政治は元々関係の薄かった事象を事後的に絡めとり、覆い被さって本質を見えづらくするような影響力を持つという点だ。
政治というより政局争い、かな。右だの左だのという話が後から加わって内容がぐちゃぐちゃになって結局本当の問題が解決しない、というのはわりとあるあるだと感じている。

 

右でも左でもない中立がいい

と言う人が時々いるが、私はすべてのスタンスには必ず傾向があると思う。
必ず何かには寄っていて、あとはそれの濃淡や角度の違いだけ。

だから完全な中立状態は存在しえないし、まあこの話はそこまで突っ込んで論じることもなく、
単に「私は右だの左だのといった政治の話には一切関わりたくない」と訳せばよさそうだ。

 

そういえば以前、親子がはねられて亡くなった事故で、「上級国民」という言葉が話題になった。

いやちょっと待て、みんなもっと我が国の刑事司法制度を知ろうぜと思ったりしたが、公民の授業でさらっと習うくらいだとこんなもんかなあ。。

政治の基礎素養に対して、刑事司法制度の基礎素養の話がちょっと連想されたので、脱線ではあるが書いてみた。

 

 

とまあぐだぐだ言っている私も、政治の知識や理解はまだまだ一人前レベルには到達していない。

最近自分の時間の遣い方を見直していて思うのだが、何にどれくらい時間を遣うかって難しい。

テクノロジーが発達して便利になっているはずなのに、平行して消費するモノやコトや考えることも増えて、なんか忙しいね。。
忙しい中でもなんとか時間を確保しようとしたりしないってことは、実はそれほど政治に興味ないのかもと思ったり…。

でも、ぼちぼちアンテナを張りつつ本を読んだりもしていきたい。

 

'21/01/02 最終更新

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