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ラーメンズによって気付かされた「究極のお笑い」

ラーメンズというコンビが好きだ。さらに言えば小林賢太郎のつくるものが好きだ。


僕はラーメンズのコントがとてつもなく好きだった。出会ったのは中学生のときで、それから幾度となく彼らのコントをみてきた。

最初に見たのは「現代片桐概論」というネタで、これは小林賢太郎扮する大学教授が「片桐」という謎の生物についての講義を行うというものだ。

タンクトップ姿の人間の姿とタイトルがいかにもサブカル然としていて「うわ〜」と思っていたが、なんとなく気になってしまい視聴を始めた。

するとこれがめちゃくちゃおもしろかった。始まって数分間喋らずに動き、「大学教授」を完全に再現した喋り方で観客を笑わせていた。

この時の僕は完全に間違ったサブカル野郎だったので、「レベルの高い笑いを発見したぞ〜!!」とトレジャーハンターのように喜んだ。

初期の頃のラーメンズは浅はかで、僕のようなサブカル野郎にウケそうなネタが多かった。斜に構えて世間を笑うことは、根暗な学生と愚かな一部の女子にしかウケない。上記の「現代片桐概論」も面白いのは「大学教授の嫌なところを煮詰めた」ような人間を完全に再現しているところにある。どう考えても嫌な感じの人を笑う方がイヤな奴である。

しかし、何本か見ていくうちに小林賢太郎の面白さの本質はそこではないことに気づいた。自分が愚かだったことを思い知り、恥ずかしくなった。



ラーメンズのコントには、さまざまなタイプの「笑い」が詰め込まれている。ブラックな笑い、音韻を用いた笑い、会話のズレによる笑い、単純に変なことをする笑い。これらの笑いはどれも全然別のベクトルを向いていた。ラーメンズの本質は、端から端まで網羅したこの笑いの種類の豊富さにあることを見出した。

だが、年を追うごとに段々とラーメンズのコントはひとつの方向にベクトルの向きが揃っていく。僕は「前にも見たパターンの奴だ。面白くなくなったのかな。」と素直に笑えなくなった。


しばらく経ってから、僕はまた自分の浅はかさに気づく。


小林賢太郎は誰もが笑えるものとして、「普遍的で人を傷つけず、予備知識など必要のない笑い」を目指していたのだった。これに気づいたとき、僕の目から本当に鱗が出た(本当)。誰もが絶対に笑えるものを作るのは、1人を大爆笑させることよりも圧倒的に難しく、価値がある。

世界中の老若男女が誰でも理解でき、そして同じように笑えるものというのは、ある意味究極のお笑いである。そんなものが作れたら、エンターテイメントとしてこれ以上のものはない。僕はその究極のお笑いに魅せられてしまったひとりなのだ。そこで生まれる美しい笑いによって笑いたいと思ったが、彼の引退によって完成は見られないはぶだった。


そんなとき、耳に入った小林賢太郎のオリンピック開会式でのショーディレクターという仕事。結局その役は直前で降ろされてしまったが、オリンピックの開会式には小林賢太郎ならではの表現が詰まっていた。彼はついにを一部完成させていた。



開会式では、ピクトグラムをマイムで表現すると言うパフォーマンスが行われていた。これを見た時に僕は笑いながら感動していた。

オリンピックのピクトグラムは開会式にも度々登場し、観客に周知されていた。これを人間が慌ただしく再現するというだけで笑いが生まれていた。テンポ感、映像との融合、再現するための鮮やかなアイデア、それらによって生み出される笑いは本当に美しかった。

劇団ひとりの出ていた映像も素晴らしかった。起きている事象はただライトが目まぐるしく点滅し、映像が流れているだけだ。それだけで観客は劇団ひとりに悪戯されていることを理解し、笑うことができる。


これこそ、彼のやりたかった究極の表現だと気づいたとき、鳥肌が止まらなかった。普遍的で人を傷つけない、予備知識などいらぬ誰でも笑えるものが完成した。しかも、小林賢太郎がいないことでそれは図らずも完成してしまった。でもきっと彼はこんな程度では満足できず、もっともっと面白いものを僕らに魅せてくれるはずだ。


僕は未だに初期のラーメンズのような笑いしか提供することができない。いつか、自分も究極のお笑いの形を見つけたい。


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