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小説❤︎春風に仕事忘るる恋天使 第十七話

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 一週間後の夜。高野は仮面を被った依頼者を連れて戻ってきた。人間界の時間にして30分も経っていないはず。最初からスタンバっていたのだろう。俺はこの計算高い敵を出し抜けるのか一抹の不安に駆られるがポーカーフェイス維持を努力する。

「では、念波認証を」

 玲子は仮面男に天界の機械を傾けるとにっこりと微笑む。仮面男はその機械に念波を送り込んでいる。

「ピッ。依頼者ご本人であることを確認しました」

 最近急成長しているエンジェルテックスタートアップが開発した最新式のセキュリティ機能搭載念波認証機が淡々と答える。これで役者は揃った。俺は仮面男に尋ねる。

「では、オークションに先駆けてディナー用のワインを開けておこうと思いますがよろしいですか?」
「ワインですか。それは楽しみです。たしかに事前に開けておいた方が美味しいワインを飲めますね」
「その通りです」

俺が手を叩くと、シェフがワインをニ本持ってきて俺に語りかける。

「今日はソムリエが不在ですので私が二本のワインを選びました。どちらにしましょうか」
「なるほど、ソムリエは不在ですか。それではどちらのワインが良いか判断するのは難しいですね。そうだ、お客様に選んでもらうというのはどうでしょう?」

 俺は仮面男に視線を向ける。

「そうですか。私でよろしければ」

 シェフは小さく頷くと仮面男の前にワインを並べる。一本目は超高級ワインのマルゴーはまだ数年前のビンテージ。もう一本は飲み頃ビンテージの格付け二級の高級ワイン。格付け一級のマルゴーほどではないがしっかりと熟成期間を経ていて超美味しいはず。

「ひとつは天下のマルゴーですか。でもまだまだ若いですね。こちらの格付け二級のワインをいただきましょう」

 マルゴーは超高級とはいえ人間界に旅行に行けば二桁万円で飲むことができる。だからワイン好きの天使なら若すぎて美味しさが出ていないマルゴーより、飲み頃の二級ワインを選ぶことは至極自然な選択だ。

「かしこまりました」

 シェフがソムリエナイフを取り出したそのとき、俺は痺れを切らして仮面男に話しかける。

「さすがにお目が高い。ワインにお詳しいのですね」
「いえ、ほんの天使の嗜み程度ですよ」
「なるほど、さすがです。そういえば、そろそろ天使の月曜日も近いですね。確か……パスタクエタ……でしたっけ」
「ははは。パスクエッタというんですよ」

 仮面男は一通り笑った後、急に笑い声を止めて立ち上がりシェフを呼び止めた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。やはり、そちらのワインに変えてくれ」

 かかったな。俺は内心ほくそ笑みつつも心配そうな表情を作る

「どうしましたか? 先程このワインは若すぎるとおっしゃってましたよね。であればこちらの方が……」
「い、いや、良いんだ。私は若いワインも好きでね」
「そ、そうですか? まあ、そこまでおっしゃるのなら……」

 俺はシェフに目配せをする。シェフはゆっくりと頷くとマルゴーを丁寧に丁寧に抜栓する。そして高い位置からデキャンタにゆっくりと注いでいく。その細いルビー色の滝は音も立てずにデキャンタを満たしていく。その技術と作法は三つ星シェフをも凌駕する。そりゃそうだ。内緒だけど、彼は実はシェフではなくてソムリエなんだから。そしてその場には、まだタンニンが開いていない蕾ワインの香りとは思えない果実、バニラ、バラなどが複雑に絡み合う完成された香りが広がり、その場にいる全員の心を穏やかにさせるのだった。
 特に美香は誰よりも大きく肩を振るわせつつ今までにないほどの涙を流して、その香りを堪能しているようだった。


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