「知る」ことの大切さ


私の父はJazzオタクで、家族旅行といえばどこかの町でやっているジャズフェスティバルに行く事だった。私としては幼児にしてJazzに興味があるはずも無く傍迷惑なだけで錚々たるメンバーのフェスの内容は何一つ覚えていない(生マイルスも見たはずだが記憶にないw)が、一つ鮮明に覚えている記憶がある。

多分まだ小学生の低学年かあるいは幼稚園だったかもしれない。なんと、私が生まれて初めて握手した黒人はロンカーターなのだ!
演奏を終え、舞台から降りてきた彼に、母が無理やり「あんた子供やから絶対握手してもらえるし行き!」と無理やり背中を押された。
目の前に現れたその巨匠は当時の私の2、3倍ある長身で、私はそんな手足の長い「黒人」を初めて間近で見て(70年代の関西ではそもそも「黒人」が歩いてることはなかった)恐怖を感じた。そして差し出された手の指が長くて大きくて、黒い肌にやたら白く見える掌が恐ろしくて怯んだ。そんな私の手をとって巨匠は優しく握手してくれた。

今でもそのことは鮮明に覚えている。そして思い出す度に、「怖い」と思ってしまった自分に罪悪感を感じ、なぜそう思ったのか考え込む。そんな幼い頃から「黒人=危険」と洗脳されていたのか、それとも見た事も無い長身に怯えたのか?はたまた「黒くて大きいもの」は本能的に怖いのか?それとも黒くて大きい物が「怖い」と幼い頃からの洗脳で怖くなったのか?

幼い頃ならまだしも、レゲエなどの黒人音楽にのめり込んでいた20代に、ジンバブエに旅行に行った時、暗くなり始めた夕方、道端にただ立っているだけの黒人を見てドキッとして、心底「怖い」と思った事もあった。黒人音楽に没頭し、黒人のファッションを真似てドレッドやブレードヘアーにしていたにも拘らずだ。この黒人に対する訳のわからない恐怖はどこから生まれたのか?

30代に入ってからは数年アメリカに住んだことや、最近は東京でも黒人に出会す機会も増え流石に黒人に対しての意味不明な恐怖感は無くなったが、それでもどこかで親近感を感じない自分がいた気もする。
しかし最近、立て続けに、黒人差別に対する記事を読んだり映画を見たりして黒人に対する恐怖感は意図的に作られた「黒人=犯罪者」という洗脳から来てたことは少なからず影響していた様に感じている。今は少しづつではあるが、彼らに親近感を持てるようになってきた。アメリカの警官から不当に扱われるティーンエイジャーの黒人の少年の話などを知ると我が子の様にいたたまれないような気持ちになり心底「どうにかしないといけない」という気持ちになっている。

そういえば、最近顔の変形するロンベルグ病やトリーチャーコリンズ症候群などの方の記事を目にする事があるが、写真を見て「怖い」と感じてしまう自分がいる。その事に対し罪悪感を感じ、実際そういう方にあったとしても絶対にそれを表に出してはいけないと思うし、多分顔にも出さないだろう。でも心の底で「怖い」と思っている自分をどう改善したら良いのかわからないとずっと考えていたが、黒人と同様やはり彼らについて「知る」事こそが恐怖から解放される近道なんじゃないかと思って来た。
「知らない」という事は恐怖に繋がり、恐怖は差別に繋がる。だからどんなことでもとりあえず当事者のことを「知る」ことから始めようと改めて感じている。

友人が週末「知るを知る」と言うワークショップをするらしいが今こそ「知る」と言うことがいかに大切かを知るべきだ。

週末はBlack Lives Matterのデモに参加しようかな。

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