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南ヨーロッパ・東ヨーロッパの絵本紹介エッセイ エテルーノ 第一夜 Emme Edizioniエーメ・エディゾーニ 「Ciao Maestro

  太陽のお祭りは文学情報サイトということネット上にアップされていますが、絵本も文学だということで、絵本の情報も公開しています。

 日本にいる方は、南ヨーロッパ、東ヨーロッパの絵本に触れる機会ってなかなかないとかもしれませんが、そんな方のためにも、こっちの絵本をたくさん紹介しますね。

 若い夫婦がこれからのお子様の教育に役に立つようにという、僕のささやかな願いもこもっているので、ぜひ参考にしてみてください。

 今回取り上げるのは、Emme Edizioni「Ciao Maestra」です。

 日本語では「こんにちは、先生」という意味で、絵本自体も、教員をやっている女性が不思議な世界を旅し、帰ってきた後、子供にそのことを教えるという話で、イタリア語の文章を直接ではなく、僕が日本語に訳した文章を掲載しますね。

 

 

 先生は街を出て、とある村にやってきた。

 海に入り、先生はつぶやく。

「私のためのクラスは、ありますか?」

 先生は漁師にも同じことをたずねる。

「よくわからないよ!」

 男の人は彼女に笑いかけて、こう言った。

「この村は、子供たちは学校に行かないんだ。みんな釣りに行ってるよ」

 彼は学校を指差して、そう言う。

 先生はネットがベンチにかけられて、干されているのを見る。

 先生は山の中を歩いていた。

「私たちのためのクラスってありますか?」

 市長が作ったたくさんの石、スノードロップという花々にも、先生は言う。

「私たちのためのクラスってありますか?」

 スノードロップは先生に答えた。

「ここでは、シャモアっていうカモシカとか、モルモットだけが学校に行くんだ!」

 先生は動物の言葉がわからなかったけど、スノードロップに感謝の言葉を告げ、山から去った。

 街にいるとき、先生はすべての種類のクラス、学校のあとの学校、クラスのあとクラス、デスクの上に散らばった片づかないもの。

 そこにはすべてがあったけど、子どもの影はいまだに見えない。

 子どもたちはいったい、街のどこで勉強しているんだろう。

 先生はベビーカーを押していた女の人にたずねた。

「知らないよ!」

 先生の母親に答えたとき、先生は顔を上げなかった。

 それを聞いて、先生はまた旅だったけど、まだクラスは見つからない。

 それでも先生はあきらめたくなかった。

「もし私が勉強したいっていう子どもに会って、彼女が自分で勉強するって言ったら、私は彼女の先生になろう」

 そう考えとたき、先生は自分が少女なんだって感じた。

 あの日から、長い月日が経ち、先生は世界の半分を旅したことも、あまりにもたくさんのものを見て経験したために、ある時点で、なぜ旅をはじめたのかも忘れる。

 先生がもしそれについて考え、幸せとか不幸せとか感じても、そうでなくても、先生はそれについて、思いを捨てきれない。

 先生が家に帰るとき、少年が階段に座っていた。

「なんの仕事をしてるの?」

「少年は先生にたずねた」

「私の家は仕事なんです」

 歩きすぎたので、心が疲れたと思い、ベッドに寝て、少し休みたいと、先生はそう考えた。

「私は先生になりたいんです」

 少年にいいました。

「私はそれがわからなくて、旅行しているだけで、先生じゃないんです。世界のために。私はあなたの知りたいことを教えられない」

 あるとき、先生は呼ばれているのを感じた。

 しかし先生にはそれがなにかわからなかった。

 遠く離れた記憶、隠れたよろこび、忘れられた遊び。

 たぶん。

 私はためす。

 少年は次の子ども、すわるのを待ってから、話しはじめる。

 先生は話し、少女はアプローチした。次から次へ。

 2人の子どもが、自転車に乗った。

 先生はつくられたわけではない、野外の彼女の家にすわり、みんなは彼女が出席するのをみていた。

「私たちのクラスです!」

 少女は叫ぶと、彼は手を鳴らす。

 先生の言葉は、庭の隅に咲いた花の花びらを開かせた。

 その時、先生は忘れていたにおいをかいだ。

 

 

 Emme Edizioniエーメ・エディジィオーニの絵本は、全体的に絵のタッチが柔らかくて、読んでて、心があたたかくなるような印象を受けますね。

 これは僕の考えだけど、人が健やかに育ちながら、しっかり勉強に励むためには、安心する環境が必要です。

 ストーリとしては、自分のクラスを探し求めて、いろんな世界を旅した先生が、結局は野外で授業を行う内容になっていますが、その実、絵本に込められたメッセージとしては、野外でも屋内でも、本当に生徒が精神が安定して学べる環境が築くことが重要ということのような気がしますし、僕もそう思いますね。

 先生が世界の半分を旅したという表現が出てきますが、ダンテ『神曲 地獄編』の藤谷道夫の解説には、「困難や苦悩を一概に、不幸以外のなにものでもないとしか考えられないと、世界の半分しか理解できない」という言葉がありましたが、この言葉を思い出します。

 先生にとって、世界の半分が旅を通して行った内面の旅のことだったんでしょうし、残り半分はもしかしたら、生徒に教えながら現実の学びの中で、理解したり、たまに生徒に教えられたりしながら、わかっていったのでしょう。

 以前、日本にいた時、とある詩人の先生に、シンボルスカというポーランドの詩人を教えてもらい、詩集を読んだことがありました。

 この絵本の最後の方にも、シンボルスカの本のイラストが載っていますし、フローレンスのイングリッシュパーティに参加した時にあった、ポーランドの女性もシンボルスカは読んだことがあるといっていて、東ヨーロッパでは有名な詩人なんだなぁと。

 その詩人の先生も、仕事や勉強を疲れた時は香りのあるものを食べたり、見たり、するといいって言っていました。

 先生が庭の隅に植えられている花の花びらを咲かせたという表現がありましたが、花びらは英語で「コロナ」と表現されていましたが、偶然にもその先生に会った直後にコロナウイルスが蔓延したんですよね。

 もちろんこれは、ただの偶然ですが。

 ヨーロッパの絵本の好きなところは、大人が読んでも、子どもが読んでも楽しめる内容になっていて、ダンテの絵本を翻訳しているところなのですが、文学を13年半やった僕でも味わい深いです。

 こっちでは幼稚園の子どもが、日本の幼稚園生がよく着てるようなふわふわした感じの制服って着ないんですよね。

 イタリアの子ども、特に女の子は本当に大胆で、腕組んでイスに足のっけて、夜中の12時にローマのジェラード屋さんでジェラード食べたりとかも普通で、結構、驚きました。

 僕はイタリアに住んでいる大人としか話してないので、子どもがどんな会話を実際にするのかは詳しく知らないし、いろんな子どもがいると思いますが、少し知りたいですね。

 個性とか自立心のあり方が、イタリアと日本だとかなり違うのはわかっていたのですが、自立心旺盛な子どもが本当に多いです。

 この絵本の中の先生が大きな白鳥に乗って、夕暮れの空を飛んでいるイラストが僕は好きですね。

「もし私が勉強したいっていう子どもに会って、彼女が自分で勉強するって言ったら、私は彼女の先生になろう」という一言は、先生の教育観が出ていますが、わかりやすい話、やらされる勉強ほど退屈なものはないですし、本当の学びは自分の言葉の中にあるっていうことを理解しているからこそなんでしょう。

 またダンテの話で恐縮ですが、地獄編に出てくるブルネットという教師は、ダンテの先生でしたが、彼はその実、自分が人生で成し遂げられなかったことしか教えられないそうなのです。

 ダンテとともに地獄を巡ったヴェルギリウスを、ダンテは先生と呼んでいましたが、ヴェルギリウスもまたそうだったし、ダンテも理想の結婚など一部、そういう部分はあったんでしょう。

 僕の情熱的すぎる感想はこれくらいにして、最後にシメの言葉。

 

 

 先生が生徒に伝えたかったのは、言葉の意味であり、言葉だけが描くことのできる現在と未来の意味なのだろう。それでも先生が未来を旅できるのは束の間で、その繰り返しでもある。先生が、言葉は道具だと理解したその日、世界は違って見えるし、だからこそ、逆に言葉の持つ価値の深さがわかることにも気づく日が来る。それが、先生が人生で大切にしてきた言葉の重さそのものであり、人と人とを繋ぐ本当の架け橋にもなるのだろう。

 

 

了 


  


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