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なぜ自分が大手ホワイト企業を辞めたのか、たった一つの理由

2つ前置きをいたします。

1つめ
会社を辞めて8ヶ月、
サラリーマンに戻りたい、あんなホワイト会社辞めるんじゃなかった、
と思ったことは「皆無」です。

本当に本当に辞めてよかった。

これしか思いません。

2つめ
この話はすべてのサラリーマンに当て嵌まる話とは思いません。
あくまで個人的な感覚の話であり、
さらに言えば、自分の会社、業態ゆえに起こった、極々個人的な心理の変遷過程を表したものでしかありません。

さて、
本題の辞めた理由です。

満員電車が嫌だ、とか、
毎日同じような場所で、
決まったメンツで大して美味しくもないランチを食べるのが嫌
だ、
とか、ソリの合わない役員と話をするのが嫌だ、
とかは理由ではありません(もちろん全部嫌ですけど)
人間関係でも一切悩んでいませんでしたし、
給与も、福利厚生も、何一つ不満はありませんでした。
与えられた立場や役職も社内的には価値があるモノでしたし、
許される限り自由に仕事をさせて貰っていたし、
幸いにして出世で行き詰まる、とかもありませんでした。

しかし、そんなある種の恵まれた状況の中で、
それでもどうしても辞めなくてはいけなかった理由があります。

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サラリーマンでいると本当に面白い人やモノやビジネスに巡り会えたとき、その仲間やコトの「当事者」になれないから。

これこそが自分が辞めた唯一最大の理由です。

「それ面白いね!やってみよう!」
当時、会社員時代の自分が、
何か面白き案件や事柄と縁あって巡り合ったとして、それを実際に会社にオーソライズされた「業務・仕事」にするには、
上司含めた様々な人間にその案件の価値や、会社にもたらすメリット等を説明し、納得して貰う必要がありました。
その為には、様々に仮説を建てたり、事例を挙げたり、収支を予測したり、それなりに骨の折れる資料なんぞをシコシコこしらえるのは当たり前、
さらにそれを役員会なんぞで決裁を仰がなければいけない日には、より一層面倒な諸々の手続き、調整、複数の役員への事前ネゴなどなどが要求されます。
めっちゃ時間かかるやん。
でも、これは別に良いのです。
仕方ない。
会社のお金でやりたいことやるためですから、
多少の面倒やノロさはあまり気にしませんでした。
ですので、自分にとっての気持ちの問題は、
その頑張り段階にはなく、
実際に案件が始まってからにあったのです。
それは、

どんなに面白い案件でも、いざ動き出してみたら、自分は真の意味での「当事者」にはなれないんだ…。

と言う感覚に襲われることです。

歳を取れば取るほど、それはある種の虚無感を伴ってやって来ました。

そのやりたかった案件の責任者は、言い出しっぺは確かに自分であるけど、でも「当事者」とはちょっと違う・・・。
何をするにも、会社の看板でやる以上は、究極的には決して自分ゴトにならない。
会社組織と言う環境、時間的な制約、与えられた役割や職務、立場上の制限など、
もっと言えば、そもそもその案件の利益から給料を貰っていない事実・・・。
自分はその身分も賃金も保証された、完全に安全なところに居ながらコトを進めてるということ。
全て、会社にいる以上は当然なことなので、仕方のないことです。
わかっています。
しかし、いつしか、何年も何年も会社員を続けているうちに、
これがどうしても嫌で嫌で仕方がなくなってしまったのです。

この感覚に襲われる前は、自分の勤めていた会社や業界の中では、
確かに自分は何事に於いても当事者だと思って生きていました。
しかし、
実際はちっとも当事者ではないことに、
ある時からゆるりと感じるようになり、それはジワリジワリと自分の存在価値や意義のようなものさえも侵食し始めて来たのです。
そしていつしかそれは自分の中で我慢の出来ない大きさのストレスとなって、
もう二度と元に戻ることはありませんでした。

「ちょっと持ち帰って検討します」
「稟議通るかどうか、そこが課題です」
「私は良いんですけど、上がどう言うか・・・、多分ダメだと思います」

大きな資本と組織でしか作り得ないビジネス。
その価値を否定するつもりは毛頭ありません。
むしろ、歴史を紐解くまでもなく、インパクトのある社会貢献を生み出す総量は圧倒的にそれを礎とすることが多いわけですから。

しかし、

で?
それはそれとして、
お前はどうなんだ?
お前はそのビジネスの当事者なのか?
お前(私の名前)個人では?
こっちはリスク張ってるが、お前はどうだ?

と聞かれた時、
私は「いいえ」と答えます。

大きな予算や組織で動くプロジェクトや案件に於いて、
自分は確かに企画書を書きました。
確かにたくさんのプレゼンや説明をしました。
確かに予算を申請しました。
確かにたくさんの意思決定をしたつもりですし、
それを部下に伝えました。
確かに・・・。

でも、しかし、
実は、全ての最終決裁は自分ではなく、他の人が、
と言うより「その時の流れのような、空気のようなもの」が行っていたのです。
自分の意思だと思って、指示していたことは、
上手いことバランスよく「コトが着地する」ことを願う風潮から生み出された、
あくまで帰納法的な論理の延長であり、それは言うまでもなく会社の意思を後ろに背負ったものでありました。
それを意識して以来、
自分は何かを言うにつけ、
後ろに潜んだ人が曖昧な手つきで取りあげた餅を、必死の形相で一生懸命に喰らってる、
「二人羽織の前の人」を演じているような、そんな滑稽ささえ感じるようになってしまいました。

自分が作った多くの資料は、その「会社の意思、流れ、空気」に上手く寄り添う為に作られた物でした。
では、その会社の意思は誰が決めたのか?
誰が決めたはありません。
(特に昭和からある大きな)会社は合議制であり、全体最適であり、体面的あり、株主の意見であり、
派閥の思惑であり、時の運であったり、なかったり・・・。
平社員も課長も部長も役員だって社長だって、
大きな会社であればあるほど、常に誰かや何かと調整しながら事を進める必要があり、
それは関わる人やお金の総量に比例して複雑化していきます。
先に述べた「流れのような、空気のような」存在に全員が支配された、
そんな世界の住人になることから逃れることは出来ません。

そこにリーダーを担う人は確かにいるし、
自分もその立場であれば、
意思を持った人間のように振る舞っていましたが、
でも、そんな傍目には強く見える意思でさえ、
思い返してみれば、多くの人が介在し、多くの利害調整を経たことで、
真の意味での、当事者の意思が背負うはずのリスクや、
貫くべき思いは知らず知らずのうちに削ぎ落とされ、関わった人の頭数だけ細分化され、分散されて出来た、
少し疎遠になってほとんど話すこともない、
けど、別に嫌いじゃないけど好きでもない、そんな昔の知り合いのような、
ほとんどそんな印象の存在に成り代わることもしばしばでした。

当然のことです。
「分散」それこそが大きな会社のメリットですから。
人、物、金、を分散させながらリスクを回避すること、
それが出来るのも大きな会社だからこそです。

今更何を言っているんだ、
と思われる方も多いと思います。
お前は新入社員か?と。

そう、これは、この「今更何を言ってやがるんだ、ここは会社なんだぞ。」の事柄について、

改めて

「ちょっと待って、マジでこれにあと何十年も、還暦すぎるまで付き合うの?」

と思ってしまった、気付いてしまった男の話なのです。

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蛇足ですが、
何か大きな案件が終われば、
「お疲れ様でした。」と大して美味しくもない居酒屋の、冷たくも無いビールで乾杯して、関わった仕事の量や貢献の度合いは関係なく、
一律の会費で部署単位で宴会を行ったりします。
誰が良い、悪いでもなく、
頑張った頑張らなかったでもなく、ぬるいビールを高らかに掲げ、
皆、平等に「みんなお疲れ様、頑張ったな。」と乾杯です。
実にあっぱれなことです。
私自身がその飲み会の長であり、部下全員を当たり障りなく等しく労う役割を演ずることも何度もありました。
ここでも「分散」の力学が作用します。

私は、その「予定調和なる分散の世界」には心の底から飽き飽きしましたし、
それ以上に、
先に述べた「本当の当事者」の不在感に、
耐え難きつまらなさを感じてしまったのです。

自分じゃなくても別に良いじゃん。
ここで行われる事柄全て、いっさいがっさい、なにもかも、
別に自分である必要など微塵もない。

そんな感覚に完全に支配されてしまいました。

どんな世界でも突き抜ける人はいますし、
スーパーサラリーマンのような存在になり、
自分を唯一無二の存在としてブランディングして大手出版社等から本さえお出しになる人もいます。
有名なあの方やあの方がそうですよね。
まさしく「当事者然」として様々な事業の実績を積み上げているように感じます。
しかし、それはエクストリームな特殊例の「人生の一時期・過渡期」を抜き出したに過ぎない、と思います。
なぜなら、
いずれ必ずそんなスーパーサラリーマンもほぼ間違いなく「独立」をするからです。
そして、どれだけスーパーであっても組織で動く限り、
私の言う「当事者」とはちょっと趣を異にするのは間違いない、
と思います。

もちろん、
自分はそんなスーパーな方達と比べるレベルには到底ありませんが、
しかし、
私が求めたのは案件や予算の規模、社会的なインパクトではなく、
どれだけ小さく細かいことであっても、
「自分のことを全部自分で決める」自由と責任でした。
それこそが「当事者」として生きる必要条件だと思ったのです。
そして仮にそれが行き詰まったとしても、
一度きりの人生、それを経験しないで終わるのは嫌だ、
と思いました。

以上が私が会社を辞めた理由です。
そして、
これを原因に辞めた以上、また再びどこかの会社組織に再就職する、と言う選択肢はありませんでした。
残された選択肢は独立・起業だけでした。

改めて申し上げます。
辞めたこと、微塵も後悔しておりません。

本当に辞めて良かった。
辞めなくては見えなかった世界を見ることができているし、
それはこれからもずっと続くから。

心からそう思える日々を暮らしています。






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