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2021年 中高生部門(高校生の部)最優秀賞『ことばたち』

受賞者
中原 妃華里さん 高2

読んだ本
『ことばたち』 ジャック・プレヴェール作 高畑勲訳 ぴあ株式会社

作品
解けてはいけない謎

 私が詩を読み始めたのは中学生の頃だった。初めて図書館で借りたのは中原中也詩集で、苗字が一緒だったというだけの理由で手に取った。私は本選びに関してそういう粗雑なところがある。とはいえ、そのおかげで詩が持つ独特の魅力を知ることが出来た。洗練されたことばが編み出す独特の世界観にうっとりと浸る時間は小説を読んでいるときとはまた違った高揚感を与えてくれる。美しく心を満たしてくれるもの。これが私の中での認識になった。ところが高二の夏、それをことごく破壊する詩たちに出会った。フランスの詩人、ジャック・プレヴェールの詩だ。そして私の中に残された爪痕は癒えるどころか日に日に深さを増している。

 はじめて読んだ訳詩集は『ことばたち』。翻訳した高畑勲が私の好きな映画監督だったというこれまた安易な理由で読み、唖然とした。こんな詩が、存在していたのかと。ファンタジーの衣を纏って現実を映し出す物語を寓話というのならば、それらはまさに寓話的なものだった。ファンタジーにしてはいささか描写が直接的で陰惨なものもあるが、そんな風に思った。散文詩が多かったことも影響していたのかもしれない。彼の詩の中では鳥は人と言葉を交わすし、二匹のかたつむりたちは葬式へと出かける。間違いなく現実とかけ離れていていかにも「詩的」だが、そこには現実が、「真実」がはっきりと映し出されていた。詩の世界に決して没入させてはくれない。ことばの端々から滲む戦争や抑圧に対するプレヴェールの怒りが胸に突き刺さった。私はその詩たちの背景には彼の経験した二度の大戦とナチスの占領下の記憶があったことを先に述べておきたい。彼のことばが決して単なる想像ではないことを知っておいて欲しいからだ。

 彼の詩に「鯨釣り」というものがある。それはとある一家のお話だ。ある日のこと、父親が息子のプロスペルを鯨釣りに誘う。しかし彼はそれを断り、仕方なく父親は一人で海に向かい鯨を一匹釣って帰る。それからプロスペルに解体してくれとナイフを渡すのだが、またもや彼は断り、ナイフを放り投げてしまう。すると突然、鯨がそのナイフを掴んだかと思うと、父親を刺してしまうのだった。喪に服す母親を見て鯨はその行いを後悔するが、急に笑い出したかと思うと母親に向かってこう言い残し家を去っていく。


  奥さん、誰かが来てわたしをよこせといったなら
  どうかお願いです、こう答えて下さい
  鯨は出ていきました
  おすわり下さい
  ここで待ってください
  十五年たったら、きっと鯨は戻ってくるでしょう


 私はこの詩に戦争を垣間見た。父親が向かった荒れ狂う海は戦場だろう。鯨は敵の兵士である。なぜならプロスペルや彼の父親は敵の兵士を同じ人間だと思っていなかったからだ。同様に、鯨からしてみればプロスペルの家族もまた「鯨」に見えていたに違いない。そして鯨は敵であるプロスペルの父親を殺し、ひとつの家庭を壊したことで、初めて自身とそれまで「鯨」と思っていたものたちが同じ人間であることに気づいたのだ。自分がしたことはただの人殺しだ。そう気付いて彼は自身と祖国を嘲笑ったのではないか。別の訳詩集ではあるが岩波文庫の『プレヴェール詩集』に「鯨の罐詰を作る女工たちの唄」というものがある。その詩の中でプレヴェールは漁師や百姓の娘たちに語りかける。「きみらの一生は不幸だろう/子供をたくさん生むだろう/たくさん たくさん/その子供らの一生も不幸だろう」と。題名から察することができるように、その子供たちも「鯨」なのだ。彼らの中のひとりがプロスペルの父を殺したのかもしれない。

 プレヴェールの詩を読むと、ことばのひとつひとつが何を意味しているのかを考えさせられる。読み終えた後にそれについて思索を巡らす時間が、その詩を本当の意味で鑑賞している時間だ。また、その時間はその場限りのものではない。日常のふとした瞬間に顔を覗かせて何度も何度も現れる。なぜならそれらが単純明快ではないからだ。何だかよくわからない。だからこそ知りたい。そうして心に残り続ける。「鯨」が十五年したら戻ってくる理由。それを知る日がいつか訪れるのだろうか。

 私は元来、詩に限らずあらゆる「反戦を訴えているもの」に対して幼い頃から苦手意識を持っていた。「あの頃の記憶」などと題して語られるその悲惨な過去を語り継いでいくことの必要性を頭では理解していた。けれどそういったものを見聞きした時に自分が共感してしまうことに嫌悪感があったのだ。まるで自分が当事者であるかのように悲しく苦しい気持ちになってしまう。そんな自分が嫌いだった。なぜなら私は本当の意味でその過去を知ることはできず、彼らと同じ気持ちを抱くことは出来ないはずだからだ。それでもやっぱり泣いてしまう。彼らの苦しみの上に造られた社会でのうのうと生きているというのに。もし事前にプレヴェールや彼の詩について少しでも知っていたならば、私がこの本を開くことはなかっただろう。けれど私は何も知らず、何の先入観もなしに本を読んだ。泣くことはなかった。彼の詩には確かに強い反戦の意が織り込まれている。けれどもそれらは戦争による人々の苦しみや悲しみを読者に共感させるような、感情に訴えるものではなかったからだ。ただ静かに、淡々と描かれていた。とても激しい怒りをそっと押し込めるようにして。故に、常に客観的な眼差しで見つめることができる。私にはそれがうれしかった。

 同じく戦時中について語ったものに「馬物語」という詩がある。ここでは一匹の「馬」が身上話を語る。幼くして両親である二頭の馬を将軍に殺されてしまった彼は、命からがら大都会へと逃げ出した。しかし戦争が始まり、彼は動員されてしまう。戦況の悪化に伴い生存者が少なくなると、人々は彼をじっと見つめ「ビーフステーキ」と呼ぶようになるのだった。そしてある晩、彼を食おうと話す声が聞こえ、その声の主があの将軍だと思った彼は森へと逃げ出した。戦争が終わり、将軍が死に、最後に彼はこう語る。


  彼の美しい死を死にました
  でもぼくは生きています それが肝心なことです
  こんばんは
  おやすみなさい
  たんと召し上がれ将軍さん


「死を死にました」という言葉に違和感を覚えるだろうがこれは原文のまま引用したものである。「馬」は命の危機に際して二度将軍から逃げた。それなのになぜ、将軍の死が「美しい」のだろうか。「召し上がれ」と言ったのだろうか。

 しばらく考え、「馬」はアフリカ兵ではないかと思った。理由は二つ。馬は古くから家畜化されている動物であり、人に使役されることの多い動物であること。それともちろん全てではないが馬の被毛は茶褐色や黒色が多いことだ。当時フランスはアフリカ大陸の広い地域に植民地を持っており、そこから連れてきた者たちをフランス軍の一員として戦争に動員していた。まわりのフランス人たちとは異なる存在であり、「人間」よりも劣った存在という認識がそこにはあったのではないかと思う。また、馬を喰らうといのは特攻させるということを示しているのではないかと思った。「馬」の命を奪う行為であるということと、戦況が苦しい時に使われる手段というイメージがあったからだ。いずれにせよ、それが命を消費する行為には変わりないはずである。対して「人間」たちはそのことに何も感じていない。だから「馬」に対してビーフステーキと言ったのだ。彼らからすれば馬も牛もさして変わらないのだろう。

 やがて戦争が終わり、将軍の死によって「馬」は自由になった。けれど彼は幸せになることが出来たのだろうか。この詩の冒頭で彼は自身の人生を孤独だったと称している。自由になれども彼を同じ「人間」として対等に接した者はいたのか。人種差別は七〇年以上経過した今でも根強く残っているというのに。結局、彼は「馬」のままだったのだ。その一方で両親を殺し、自身をも殺そうとした将軍は、「人間」だった。だから彼にとって将軍の死は美しい。「たんと召し上がれ」という言葉にはそんな彼の絶望が表れているような気がする。

 ここまでに挙げた二つの詩には同じ人間同士に横たわる深い断絶が示されている。それらは戦争や植民地主義によって生み出された。ではそれらが無くなれば、その溝は消えるのか。第二次世界大戦の終結を日本の降伏時とするならば、今年で七六年が経過した計算になる。

 最後にもうひとつ「自由な外出」という詩を引用したい。これは前述の詩たちとくらべれば短いものだ。ひとりの男が軍帽を鳥籠に入れ、頭に小鳥をのせて外出した。そんな彼にもう敬礼はしないのかと司令官が尋ねる。「しないよ」と小鳥が答え、「失敬」と謝った司令官に小鳥は「あやまることないよ だれしも間違いはあるもの」と言う。

 鳥はもちろん自由のこと。それまで封印されていた自由に代わって今度は軍帽、つまり戦争や兵器を封印された。つまり戦争の終わりを意味している。ここで肝心なのは軍帽を捨てるのでも燃やすのでもないということ。決して無くなりはしないのだ。

 そして最後の小鳥の言葉に注目したい。「だれしも」間違いがあるのだという。では私たちは間違わずにいることが出来るのか。軍帽は鳥籠の中にある。無くなってはいない。だから私たちは用心する必要がある。

 プレヴェールの詩には意味を捉えることが容易でないものが多い。それでいてなぜこんなにも心が震えるのか。彼の詩を読んでいると、その情景が幼い頃に親しんだエドワード・アディゾーニの絵となって浮かび上がる。岩波少年文庫の『ムギと王さま』の挿絵を描いた人だ。この方の描くあの特徴的なペン画は白黒なのに温かみがあり大好きだった。それがプレヴェールの詩にはぴったりなのだ。それは直接的な言葉で語られる昏い世界の根底に、人間への深い愛があるからに違いない。そうでなければ人と人との間の歪な壁に気付いたはずがない。

 私は幸いなことに未だ戦争を経験せずにいることが出来ている。はっきりとした差別を受けたことも無いし、したことも無いと思いたい。けれどその存在をプレヴェールの詩によって強く思い知らされた。平和学習というものの一環でほぼ毎年戦争の悲惨については耳にするし、何より私の誕生日が八月一五日ということもあってその存在は私の中で決して小さくはない。けれどここまで戦争について深く考えたことは無かったと思う。人生一七年目の今更になって、しかもフランスという遠い異国の詩人によって触発されたのはなぜか。確かにプレヴェールの詩よりも鮮烈な話を読んだり聞いたりしたことはあった。しかしそれ故に、そのどれにおいても感情移入してしまい、涙を堪えるので精一杯で思考の余地が残らなかったのである。そして二、三日も経ってしまえばあまりに平和な日常に埋もれてそれらは息をひそめてしまう。もちろんそれは私の意志の薄弱さと能天気さに起因されるものであり、決して批判したいわけではない。むしろそんな私がここまで考え続けさせることを可能にしたプレヴェールの詩にスポットライトを当ててほしいだけである。彼が残していった多くの謎。鯨の謎、馬の謎、鳥の謎……。もちろんここに載せられなかった分もまだ沢山ある。謎が謎であるがゆえに沸く言い知れぬモヤモヤが、色褪せぬ存在感の秘訣なのかもしれない。もしそれらが解けることがあるとすれば私が彼と同じ経験をするとき、つまり戦争やそれに近しい状況が自身の身に起きたときである。少なくともそれまではその謎とともに私の胸に残り続けることだろう。その日が訪れないことを切に願う。

受賞のことば
 この度は栄えある最優秀賞にご選出いただきありがとうございます。詩の感想文というものは読んだことすらなく、自分の書いたものが上手く伝わるかどうか不安が大きかった分嬉しかったです。
 作文のテーマの関係で、一番気に入っていた「劣等生」含め触れられなかった詩や表現も多くありましたので、どこかで文章にできたらいいなと思います。

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※応募者の作文は原則としてそのまま掲載していますが、表記ミスと思われるものを一部修正している場合があります。――読書探偵作文コンクール事務局

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