この「見たい」って、一体なんなの?
たとえば野球の大谷君が投げて打って今までの常識を蹴散らすという報道がされている。
野球などまるで興味のないボクが「見たい」と思う。
こりかたまった「権威」の予想を蹴倒して笑顔なのは痛快である。
逆にテレビバラエティで山口君のゴシップが叩かれ垂れ流される。
そうしたバラエティを観たくなく観ないボクにさえ聞こえてくる。
偶然そんなテレビがボクの目に入ろうものなら、、
「もうええやろ、ほっといてやれや、山口が何かやったからオメェと何の関係があるんだよ、このタコ!!」と毒づいている。
ボクは「見たくない」のだが、これだけ流されるのは「見たい」人が多いからなのだろう。
さてこの違いは何だろう?
大谷君は「見せる」ために野球をやっている。
一人でも多くの人に見てもらいたく、野球に興味のないボクも乗せられた。
なんとなく喜びで心が満たされていく。
山口君はおそらく「見せたくない」に違いない。
それは自分の弱さなのだから、他人には見せたくないとなるのは人情だ。
それを他人は許さない。他者の弱さをすべてを暴き優越感に浸っている。
ボクは心が削られる。山口君も心は削られているだろう。
「見せたい」もの「見たい」、そして心が満たされる。
「見せたくない」もの「見たくない」、心が削られるから。
(「見せたい」ものでも心が満たされなければ「見ない」し、「見せたくない」ものでも「見て欲しい」というものは「見る」、自分の心が削ずられてでも、それはいつか心が満たされるに変わることを信じている。)
これがボクの「見たい」「見たくない」の基準かもしれない。
ところで山口君の失態を「見たい」という人は「見て」心が満たされているのだろうか?
満たされているよ、と言うかもしれないな。
きっと「見たい」人は「見たい」を正当化するに違いない。
社会で暮らす人にとって悪を懲らしめるのは当然の義務です、とか言っちゃって。
被害者が、、、社会が、、、道徳が、、、ってね。
そうして自分の正義を確認して心を満たしている、のかもしれない。
でも、それは山口君が自身で背負う問題で他人は関係ない。
しかも、どうもその心の満たし方は、実は心が削られている気がしてならない。
そしてボクは山口君の「弱さ」のほうに寄り添いたいとさえ感じている。
人はそれほど「強い」ものではないと思っているから。
山口君を見ることで心が満たさるのは、自らの「弱さ」よりもさらに「弱い」を確認することができて安堵するだけで、だからこそ実は「心が削られている」とボクには見えてしまうのかもしれない。
もしくは道徳とか法律とか正義にすがることで安心するとか、、笑
文春の記者も「見たい」からゴシップを探し彷徨いつづけているのだろうか?
他人の弱みは蜜の味とでもいいたいのか、、、心を削っていないだろうか?
さて、ここまで前文で、ここからが本題、笑。
ボクは森を歩くのが好きである。
なぜ好きか? その空気が好きであり、五感に包まれ身体に響く感じが好きに違いない。
そうしたなか、そこに息づく何もかもに出会いたいという欲望がある。
つまり「見たい」のである。
森の入り口にある掲示板をみるとボクだけではなさそう、笑。
また「見ること」を妨害されると怒りにあふれる気持ちも良く分かる。
(メタファの使い方がよく解らないが、、、笑)
そんなボクらが森の散策道の土手で鳥の巣を見つけた。
その巣はその道を歩く人間にも発見されやすい位置にあり、でも土にまみれてそこに巣がある可能性を知らなければ通りすぎてしまうほど土と同化していた。
それを一緒に歩いていた友人が発見したのだ。
ボクは喜んだ。
「見たい」がかなった感じである。
巣のなかを覗き込み卵を確認するとさらに嬉しくなった。
心が優しさで満たされていくのを感じる。
満たされて帰路についた。
帰ってから、一緒に森を歩いた友人たちと「幸せ」をシェアしていると、一人が、、、鳥の巣は、、、
「見ない方がよかったかもしれない」と言った。
ボクの裡にほんの少しあった黒い一点の疑問を撃ち抜かれた気がした。
ボクは一生懸命自分の「見たい」気持ちを正当化しようとした。
けど、その鳥にしてみたら、自分を巣を見られたくなかったのだよな。
だから土と同化して他者からは解らないようにしたに違いない。
同じ鳥でも燕は人の目につくように「見て欲しい」と巣をつくるのだけど、この鳥は自分の「弱さ」を知っていて見てほしくなかったはずだ。
ボクは「見たい」があり、見ることで心が満たされ優しい気持ちになれる。
鳥は「見せたく」なく、見られることで心が削られていく。
鳥はそんなことさえ思わないだろうが、人間的に解釈すると、きっとそうに違いないと思う。
ボクは、山口君を「見たい」という者が自己を正当化するように言い訳を考えていたのだろうか?
ロジックでいけば、今のところどうしても自己正当化できない。
おそらく多数は、人間中心に考えていて、ちっぽけな自然を「見たい」は問題にしないだろう。そこに甘えたいのだが、考えれば考えるほど、ボクは文春の記者のように感じてしまう。
まるで「見たい」を許容するのが罪悪かのように、、、、
じゃ「見なければいいではないか」となるだろ?
そうだよね、そうなんだけど、どうして気になって仕方ない。
でも「見たい」欲望を克服することができなかった。
今週も見に行ってしまったのだ。
つぶらな瞳が不安そうだorz
精一杯の言い訳をするなら、鳥を驚かさないように近づかないように普段持たない300mm(実質600mm相当:かなり遠くから撮影できる)と三脚をもってではあるが、問題の本質はそんなことではない、と葛藤が続いている。
ああ、当分そんな週末を迎えるのだろうな。
見守ってあげたい、、と言ったところで、じゃ来るなよ〜、と鳥の瞳に訴えられそうだ。もう言い訳しません。見させて下さいm(_ _)m
可愛すぎます^^;
この「見たい」って一体なんなんだ〜。
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