オノレの言葉に酔いしれる

君さぁ、自分の言葉に陶酔してるんじゃない?
そう言われて、ボクは鏡を見る。
言われれば、確かにその通りだ。
自分のテキストを何度も読み直してニヤけているボクが映し出される。

傍から見れば気持ち悪いかもしれないな。
ナルシストかよ、と思われているかもしれない。
そうだね、確かに不気味かもね。

でもボクにとっては、生きることそのものだから。

ボクに降りかかる全ての「何故」に言葉で向き合う。
誰かが言った言葉の「違和感」に、ボクはボクの裡で対話する。
言葉を何度も書き換えながら、「何故」や「違和感」を味わう。
咀嚼して、飲み込んで、吐き出して言葉を綴る。
捨てて、拾って、蹴飛ばして言葉を綴る。
埋めて、踏みつけて、掘り起こして言葉を綴る。
積み上げて、押し倒して、並べかえて言葉を綴る。
やがて「何故」の答えが視え始める。
「違和感」の正体が表出しだす。
そうだ、そうだったんだ、やっと出会えた。

ボクは、ボクによって紡がれた言葉を見つめる。
自分で編んだ言葉を何度も読み返してはニヤけている。
noteでも、ちょっとしたメールでも、表に出さないメモ書きにさえ
ボク自身の言葉を求めて、探して、書き直して、読み直す。
書き直し、読み直すの繰り返すなかから、やっと生まれた言葉に喜び酔いしれる。
そして、またまた筆を入れ、さらにニンマリする。
ニンマリしていると、さらに新たな言葉が降臨する。

あるとき本を読んでいると、ボクの裡に生まれた言葉と同じ言葉に出会った。
あれぇ、これ、ボクの言葉ではないか。
「何故」に言葉を費やして生まれたボクの言葉ではないか。
「違和感」を追求して降りてきたボクの言葉ではないか。
河合隼雄のヤロー、パクったな、と、奥付をみる。
本の発行はボクが言葉綴った夜よりもずっと昔。
しかもボクに降りてきた言葉よりも洗練された言葉。

怒りも落胆もなく、またしてもニヤける。
河合隼雄も言葉を綴りながら、たどり着いたのかなと想像してニンマリする。
ボク自身の言葉が生まれるまえなら、河合隼雄の言葉を読んで「なるほど」と頷きながら付箋を貼っていただろう。
だけど、今のボクは付箋は貼らない。
だってボクには、ボクから生まれた言葉があるのだから。
他者に生まれた言葉ではない、ボク自身から生まれた言葉が身体の裡にあるのだから。

ボクから生まれた言葉。ボクに降りてきた言葉。
それを何度も見つめ返しウットリする。
すでに言葉ではなくなり、感性として全身に行き渡った元言葉。
新しい感性に酔いしれる。
新しく生まれたボクのなかの命に酔いしれる。
こんな至福の時に酔いしれる。

よろしければサポートお願いします