歳を重ねて、ときめく

流石にこの歳になると「ときめく」ことが少なくなったと思いきや、むしろ多くなった。と、そんなことを蝶を観ながら考えている。
最近ではウスバシロチョウやサカハチチョウに出会ったときのときめきは息を止めるほどだった。って、なんだ虫かいな、と言わず聞いておくれ。
いや別に何でもいいのだけどさ、、、、
きっかけでもあるので、とりあえず蝶のことを考える。

先週はウスバシロチョウやサカハチチョウに出会った。ときめいた。
少しの手がかりで手探りでさまよい出会えた。おそらくこれまで少しづつ積み重ねた経験やそれをもとにした発想や感、学習、それが現実と重なり出会えたから「ときめいた」のだろう。

今週は、ヒメヒカゲとミドリシジミに出会った。
「ときめき」がなかった。
確かに嬉しかった。間違いなく嬉しかったのだが「ときめき」とは違う。
今週のヒメヒカゲは、そのポイントに行けば出会えることを情報として知っていた。しかもヒメヒカゲを写しに来た先着のオジサンたちの「そこに飛んでいる、あ、止まった」という言葉によって出会った。
ミドリシジミについても、そこに居るというポイントを教えてもらい、そのポイントにいくと教えてくれた人がいて、ミドリシジミを見つけてくれた。
どちらも会ったことがない蝶。とてもキレイな蝶で始めて会えば嬉しい。でもときめきはなかったのだ。
嬉しさと「ときめき」は違うのだよな。
まるでパックツアーで目的地に達したような感じ。
たしかに目的地に間違いなく着いた。
そこには写真でみて知っていたとおりの美しさがあった。
肉眼でみることができて嬉しいのだけどときめかない。
やっとたどり着き、やっと出会えたときの「ときめき」がない。

先生が言われた。何かを学び、それがある時、自分自身のものになる。よろこばしいことではないか。それはまるで、旧友が、遠方から訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか・・(生きるための論語、安富歩)

「ときめき」とはこんな楽しさに出会う瞬間だと思うのだ。
学んで実践しているなかで、ふと友人が訪ねてくるように、そのときがやってくる。
なんとなく蝶をきっかけに「ときめく」ことを考えていたのだけど、写真でも傾聴でも同じだと思う。

ただ漠然と時(歳)を重ねてきたわけじゃない。
学んで実際に試行錯誤して求めてきた。
その何もかもが繋がっていく。そして時が満たされるように、求めていた友人が訪ねてくるように出会った。

そう、きっと「生きる」ということでも。
いつか、あ、人生とはこういうことだったのだ、、という「ときめき」にも、向こうから友人が訪ねてくるように出会うのだろう。

こんなことが歳と重ねるということの妙なのかもしれない。


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