写真撮影のごとく人生を歩む@コメントのレスにかえて

前回のnoteで「写真集」をつくる「プロセス」について少し触れたらコメントを頂けた。
そのコメントは大したことないのだけど(爆!!怒られるぞ)、レスを書いているうちに妄想がヘビのごとく暴れ出し長文になってしまった。
ということを考えると、実は深いコメントだったのかもしれないな。
いずれにしろヘビ長のテキストは、すでにコメントのレスとしては成り立たなくなり、こいつ(←毒多蛇)は、自己満テキストに仕立てる気満々の気配である。

さて写真集をつくるプロセスが楽しくて、写真集の完成自体にはちょいと冷めている、ということをさらに考えてみる。

考えたのは、カメラで写真を撮るということの「どこまでがプロセス」なのだろう? はたして「終わり(=完了)」はあるのか?

たとえば、今頃はどんな花(風景でも虫でもキノコでも、あるいは街角でも建物でも人間でも)が咲いているのかと想像する。まずこの想像が楽しい。
経験や情報からの出かける日の選定や天気や気温も加味し、想像を味わう。

実際にでかける。
しかし今年のギフチョウのように、予想が外れて会えないこともある。
でも、そんな経験もまた貴重なプロセスとして積み重ねられる。
もし予想通りに出会うことができたとしたら小躍りする。
なんなら写真を撮るよりも嬉しいかもしれない。ああああ、やっと会えた~!!という感じである。

ただ、写真撮影として考えると完全にプロセスで、まだまだ道半ばである。

こんなふうにして運良く目当てのモデルに出会えた。
それは、とある花だったとしよう。
その花を見つめながら、どんな風に撮ってあげようかと考えて構図を探る。
これは、これまでのあらゆるプロセスを積み重ねた感性によるものであるが、先もつづくので、今のこの感性もやはりプロセスである。

ファインダーを覗きながら、花(モデル)の表情もさることながら、背景や空間そしてなによりも光の表情も見つめる。
ときにレンズの選択をしなおす。リセットである。
画角が変われば構図も変わるので、1からやり直す。
時間をかけると光が変わってしまう可能性があり、ゆったりはできない。
上手くいけば、ファインダーに映された「絵」を見入って満足する。
ああ、出会えて、構図を決めることができてよかった。

モデル(あらゆる被写体)と出会えたことの感動とはまた違った、いち写真撮りとしての感動である。
ある意味、感動はピークを迎える。

写真撮りは、そっとシャッターを押し、目を瞑る、、、、ああ、これで終わった、と感じることがある。至極の時。
結果=写真なんか、どうでもいいか、みたいな。
とはいえ、まだまだ「写真」に至るまでのプロセスである。

部屋にこもり、結果=写真を確認する。
ファインダーを覗き、構図が決まったときの再体験である。
RAW現像をしながら、感動の再構築をする。
あの感動は間違えなかったと感じる写真があれば嬉しい。

写真ができあがった、、、、と、まだ終わらない。
とりあえずの区切りとして、写真を選択しnoteにて記録と“おっそわけ”をする。“おっそわけ”をしてしまうのはホモ・サピエンスの性である。

と、ここで一旦「完了」する。

はて?「完了」するのか?と自問する。

こうして蓄積された膨大な写真をもう一度選択して、時間をおいて「自らを確認する」までがプロセスではないか?と自問する。
そうした結果、できるのは「写真集」ではないか?と考える。

それで、今度は「写真集」をつくるためのプロセスが始まる。そして「写真集」が完成して「完了」する。
写真集もまた“おっそわけ”したいと思う。
ホモ・サピエンスの性である、笑。

ところがここでもまた、はて?それで「完了」なのか?と自問する。

ここもまた、次の写真を撮るための、次の写真集をつくるまでの「プロセス」ではないか、という思いが浮かぶ。

一枚の写真をとるまでのプロセスを繰り返し、一冊の写真集にまとめるプロセスを繰り返す。積み重ねて成長していく。

そう考えていくと、終わりのなく続く「プロセス」なんだな、と気づく。
写真を撮ることも、noteにupすることも、写真集をつくることも、全てが繰り返さるプロセスなんだよと。
繰り返されながら成長していくプロセスなんだと。

で、結局どういうことなのか?

つまりね、「写真を撮る」とは、つくづく、この世との対峙の仕方(のひとつ)なんだな、と思うのさ。
生きている限り「この世との対峙」に終わりはい。
つまり「生きる」とはずっとプロセスで、死が終わり(=完了)になる。
死ねば、自身では結果を見ることはできないので、つまり人にはプロセスしかないということになる。

と、ここまでが前置きです。
長くなりましたが、ここから前のnoteの冬穂さんへのレスです。

>ゴールはあちらに逝く時かな、、、

ほんとそうですね。
あちらに逝くとき、私たち自身は無となります。
カメラを持っていくこともできません。
というか、カメラとか写真とか本当にどうでもいい気もします。
カメラで写真を映すがごとく、丁寧に繊細にモデルも背景も光(この世で出会うすべて)を見つめながら、さまざまな構図を探り、多彩な視点を求める。
もしくは繰り返し積み重ねることで、いつか視点さえ超越する。
生きている限りそれを希求するから、ずっとプロセス。

ゴールの瞬間、微笑むためにね(←キザすぎるだろ、爆!!)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?