ボクが「新型コロナウィルス」について書けない理由

新型コロナウィルスについて何か書きたいと思っている。
言葉を綴ってはみるのだが、何度書き直しても途中で挫折してしまう。
3000とか4000文字を綴っては行き詰まってしまう。
すでに6回ほど書いて諦めた。
仕方がない、もう何故行き詰まってしまうか考えるしかないな。

そもそもテキストを綴ることとはどういうことなのか?

少し前、印象的なnoteを読んだ。
マイマガジン「お気に入りnote」に登録させていただければよかったのだけど、うっかり忘れてしまい、うろ覚えで正確にはトレースできないが、、
ようは、
対話とは自分が変わるという前提で行うものであって、ただお互いの主張を言い合うだけであれば演説であり、対話ではない。演説大会の例として朝まで生テレビを批判的にあげていた。
くすり、と声をださずに笑いながら自省し納得した。

テキストを綴るということも対話と同じであるような気がしている。
他者に読んでもらうことが前提であっても、それ以前に書くことによって、自分が変わる、があると思うわけだ。
読む立場であっても、自分が変わる、を読みとれる他者のテキストはそれが直接書かれていなくてもその意志が伝わってきて、感化され、私も変わる(変わりたい)と感じ、読むことの喜びを感じる。
書く立場ならそれ以上で、最後まで綴ることができたということは、「自分が変わっていこう」を納得とともに意識することができた、といえるのではないだろうか?

さて、なぜ新型コロナウィルスについて書きたい、と感じているのに、何度トライしても行き詰まり挫折してしまうのか。
おそらく、新型コロナウィルスによって変わりつつある空間によって自分も変わらなければならないと感じているから書きたいとなり、自分がどう変わればいいのか解らないから、途中で挫折するになる。

具体的にはこんな感じである。
私は既成の空間(これまでの社会)のなかで「生活」はしているが、意識としては独立していてかなり自在に「生きて」きたつもりである。自在とは自分勝手ということではなく、自律しながらも既成空間の同調圧力に屈することなく、自分の感性を磨きつつ善く生きるということ。
だから、映画「三島vs東大全共闘」の芥風にいうなら、新型コロナウィルスの暴力によって既成の空間にうってかわり新たな空間が現出した、となっても自律さえしていれば、私自身はこれまでと変わらず生きていくことができると思っていた。芥派だった。
のはずなのに、現実に振り回され息苦しく感じている。三島っぽい。少なくとも芥ではなかった。
これは、これまでの既成の空間を俯瞰しつつ、そこから精神的には独立しているという自覚は大きな勘違いで実は精神的にもかなり既成の空間に寄りかかっていたのではないか?
という、ボクとして認めたくない事実を突きつけられているのではないか、ということ。
はい、そうです。
格好をつけて、ボクヵぁ〜、自在に生きてます、などと言いながら実は違っていて、全共闘のその他大勢と同じで実にカッコ悪い。
だから、新型コロナウィルスについて、いろいろなベクトルで書き直しても結局はカッコ悪さに至る。
そして愕然とし、挫折する。

まず、既存の空間に精神ごと絡め取られていたことを自ら認めなければならないのだろう。
現実の自分を自覚しなければ、変わることができないのは道理だな。
そのうえでしかテキストを書き進めることはできなさそうだ。
テキストを書き進めるとは「自分が変わる」という意識の現れであるから。
さて、どう変わるか、は、今はまだ解らない。
という意味では、今回もテキストを綴ることの挫折につながるか。
でも、カッコ悪い自分を自覚する、ところまでは変われた。

いずれにしろ、すべての出来事に意味があるとするなら、「新型コロナウィルス」はボクのカッコつけた幻想を打ち破り叩きつけてくれた。
気づきと変わるへの機会である。
空間に変わらされる、ではなく、自ら変わるとしたい。
真に自在に生きるに変わっていきたい、と思索し実際に変わっていく。

それとともにテキストを綴り続けたい。


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