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ボクには見えていなかったこと!?

いつもの海上の森である。
ホントかよ???
ホントにいつもの森なのか???
確かにいつもの海上の森だ。間違いない。
おそらく百回以上、何十年と通ったいつもの森であるにもかかわらず、
今回はいつもとあまりにも違っていた。
これまで見過ごしてきたことが、これでもか!!、と発覚する。
では、いつもと何が違う?
いつもは一人で黙々と歩いている。
光と影と草と葉と虫と花と動物との出会いをもとめて、、、、
求めてはいるつもりだけど、一人で淡々と歩いていた。
今回は違った。森好きな友人たちと歩いた。
ボクには見えなかったものに次々と目を向ける。
え?また?という感じである。
眠そうなアズマヒキガエルも土にくっついた鳥の巣も、土と同化していてボクには見えなかった。

でも、見ることの出来る友人には見えるのだ。
教えられてはじめて気づく。

オオバウマノスズクサなんていつも歩いてる道ではないか。
こんな独特な花をみつけられなかったのか?

春蘭だっていつも歩いているコースの脇にいくつも葉を茂らせていることを教えられる。
昔みつけたたったひとつの春蘭の株がなくなってすでに諦めていた。

かろうじて花筏はみつけたものの、もともとそこに生きていることを知っていたからに過ぎない。
経験以外の新たな発見ができない。
まるで経験がすべてと言わんばかりに、凝り固まっているかのようだ。
何が違うというのだ?
おそらく友人は最初から「何か在る可能性」をもって見つめている。
そも「在る可能性」という発想さえできなくなったボクとの違いなのかもしれない。
「在る可能性」を前提に視野や嗅覚、聴覚に神経を集中させるか、
大きく動いたり鳴いたりする、向こうからやってきて、いやがおうでも目に入るもの以外は気に留めず漫然と歩いているか、の違いだろうか。
おそらく経験だけに頼り、あらたに探求しなかったボクは知らず知らず視野や嗅覚、聴覚、感性の壁をつくっていたのだろう。
そんな風にずっと漫然と歩いていたに違いない。
そんなことの違いを思い知った森歩きだったわけだ。
ちょいとした自信が崩れた瞬間でもある。
泣きたい気持ちである。
漫然とした森歩きという経験だけを重ねただけの根拠の乏しい自信であったことの自覚。
まあ森歩きならば「自覚ができた」、、だけでいいのかもしれない。
森歩きなら、、、ね。
と、ここでボクはドキリとする。
もしやボクは「人生歩き」でも同じミスを犯してないだろうか?
これまでの経験だけを頼りに経験にしがみつき漫然と歩いてる可能性、、、
森を歩くとき同様の壁を人生でもつくって、気づかないことだらけで、、
気づくことが在るという発想さえないような、、、
うん、でも、人生歩きのほうは一人ではなかったな。
ちゃんと他者に気付かされ、教えられてきた。
いつも人との出会いを求めてきた。
それはボクが気づいていない感覚に出会うためかもしれないなと、知っていたからだ。
それでもホントにちゃんと歩いてきたのだろうか?
まだまだ漫然と生を歩いているような気がしてならない。
今回の森歩きはそんなことをあらためて考えさせる機会にもなった。
もちろん森歩きそのものが楽しかったのは言うまでもない。
自分が自然であることを確認するのは、実際に自然に塗れるのがいいに違いない。
そして、自然のなかでしか人の本来の感覚を鋭くできないだろう。
その感覚が人という自然がもつ身体性であり、生命性である。
人生歩きでもその感覚で歩かなければならない。
むこうからやってきて与えられるものに漠然と感覚を預けてはいけない。
だからボクにとって森歩きはなくてはならないものなんだろう。
次回からは今までと少しちがった感覚で森を歩けるか?
歩けるならば、人生歩きも何かが変わるだろうか?
すべてが楽しみである。


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