知ったかぶり子育ての格言(2008.2.16記)

保育園時代にネタとして収集した「子育ての格言」を公開することにしました。私たち「大人」は、一体どれだけ「大人」なんだ?というとこから始めなければならない気がしたので……。
「子育ての格言」ですが、「子育て」だけに留まることはない気がしてます。ま、いずれにしてもワタシの偏見と無責任な知識で書きなぐったものには変わりないのですが……。

(2022.6追記)
特に傾聴に当てはまることの追記をしてみました。
格言のなかの「子ども」を「話し手」、「大人」を「聴き手」として読んでみるのも面白いかも。

1.

子どもを過大評価する危険よりも、過小評価する危険のほうがはるかに大きい

ジャンニ・ロダーニ(1920-1980 詩人・童話作家)

つまりは過大評価のがまだいいというのだろうか? ほとんどの大人は「子どもだから」という理由で過小評価しているが、そも評価とは何に対する評価なんだろう? そして危険とは何が危険だというのだろう。詩人の感性はわかりにくいな。なんとなく下の2の竹沢さんの言葉がヒントになるかもしれない。

2.

私たち(大人)の「人間を見る眼の育ち」に応じてしか、子どもたちは見えてこない。真の子ども発見は、大人の自己否定・自己改革がともなう

竹沢 清(ろう学校教師)。講演会『問題行動の奥にある「子どものねがい」をきくこころ』

親(大人)が、自分を省みることは結構難しいことだ。上記の言葉は、子どもが育っていくなかで、親(大人)が子どもにどう対応していくか、という問かけである。例えば、「叱る」という対応ひとつにおいても、親が「どのような位置で」「どのような価値観で」「どのような思想」をもって子どもを「叱って」いるのですか?という問かけなのである。それは自分の「都合」で「叱って」は駄目とか、自分の「感情」で「叱って」は駄目とか、そういったレベルではない。親自身がまず「自己否定、自己改革」したのちに叱らなければならないという言葉なのだ。本当に人間を見る事が出来る深い人間にならなければ、子どもたちの本当の姿は見えて来ないといっている。そして、そうした「眼」で子どもを見る事ができたときに、「なんで、こんな簡単なことも解らなかったのだろう」と感じるらしい。いつになったらそんな境地に達する事ができるのだろう。きっとその域に達したときには、子どもは既に成長しているに違いない。

(2022.5追記)
子育ての格言として、子どもと大人を主軸にかかれているが、傾聴でも同じことが言えると感じています。
傾聴者の器の範疇でしか、その話し手のことが見えてこない。まず傾聴者が自らの器を否定することが大切でそこを乗り越えないと話し手の真の姿は見えていないのだろう。ということも言っている。

3.

子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、いつでも、なんでも手に入れられるようにしてやることである。

ジャン・ジャック・ルソー(思想家):著作「エミール」より

デパートのオモチャ売り場のまえで泣く子に何でも買い与えてはいけない、という格言ではない。親の自己満足のために、子どもに欺瞞的環境を与えること、この子の将来を思ってと「勝手に先読み」して子どもに何かを強要することは、子どもの発達で「自己肯定感」や「自己決定力」を獲得するチャンスを奪っている。つまり実は子どもを不幸にしているということだ。

4.

子どもに純真な心をもちつづけさせるよい方法は一つしかないと思われる。それは、子どものまわりにいるすべての人が純真なものを尊重し、愛することだ。

ジャン・ジャック・ルソー(思想家):著作「エミール」より

すべての人とは「大人」のことを言っているのだろうな。今の日本の中では、絶望的だな。と、いうよりもまず「純真」ってどんな意味だったっけ?というところから確認を要する。さらには「尊重」や「愛」ということばの意味も要確認である。

(2022.6追記)
純真なものとは、単に人間以外、人為以外の自然ということでいいのかも。

5.

世の中に思ひあれども子をこふる 思ひにまさる思ひなき哉
(意味)世の中に感情、もの思う心はいろいろあるけれども親が子を思いやる心以上に強く美しいものはない。

紀貫之 (平安時代の歌人)

流石に平安時代と現代では、事情が相当変わっているな。なんとなくではあるが、子を思ふ親の心は普遍のものであっても良さそげなのだが、そうとも言い切れない事件が多発している。「名実ともに親」になれない大人が多すぎるのだろう、けれどそれは「名実ともに親」になるのが非常に困難な社会であるのかもしれない。

6.

子どもを教育するばかりが親の義務でなくて、子どもに教育されることもまた親の義務かもしれないのである。

寺田寅彦(明治期~昭和期の物理学者・随筆家)

今でこそ、いろいろな「子育て」本や「子育て」講演会などで、よくいわれるが、明治期にこれを悟っていた寺田さんはやはりただ者ではないかもね。今では、よくいわれるなどと書いてしまったが、今でも意味の分からぬ親も多く居るだろう。子どもに教育されるのが、「義務」ではなく「権利」と思えるところまでくれば、「親」になれるかもしれないな。または、逆でもいいよ。「子どもに教育されることを謙虚に受け止めたのち、子どもを教育する」というのはどないだろ?

(2022.6追記)
傾聴者と話し手の関係においてもしかり、だね。

7.

子どもには、すべての最も大きな可能性がある。

L・N・トルストイ(19~20世紀のロシアの小説家)

トルストイだから一応載せといたが、なんやらよく解らん言葉だな。単純に残りの人生(時間)が多いってことかな。訳しかたに問題がないかい?「すべての最も大きな可能性」って言い回しに不思議なものを感じるけど、それって何?

(2022.6追記)
当時は、それって何?と思ったのだろう。普通に「子どもには可能性がある」の装飾ってことで「すべて・最も大きな」がついていると読めばいいんじゃね。今なら年齢にかかわらず、と信じたいんだけどね。

8.

重要な点は、大人〔主体〕─子ども〔客体〕といった強制・伝達型の関係でもなく、子ども〔主体〕─大人〔援助者〕といった単純な子ども中心思想でもない、新しい、子ども〔主体〕─大人〔主体〕という関係を構築することにある。

加藤繁美(保育研究者.学者):著書『子どもと歩けば おもしろい』より

本のなかでは、2つの文だったのだが、ひとつの文にまとめて「名言」化してしまった。この言葉ってすごい事だと思う。ちょっと説明しとくと、大人は絶対のもの、完成された者として、その考えや思想を子どもに教えるという「強制・伝達」の関係ではなく。かといって、子どもは自然に成長するものだから自然な発達に任せ、親はその援助者として支えるという「子ども中心」という関係性でもいけない。子どもと大人が共に育つ(共育)、共に主体として位置づけられる関係性を構築しろ、ということである。「大人-子ども」でどのように、そうした関係性を「構築」するかは著書にまかせる。
この「主従関係」から「主-主関係」に関係性を転換させなさいってのは、いろいろな場面で応用ながきくよね。「主従関係」とされている全ての関係に当てはまる。「被災者と支援者」とか、「先生と生徒」とか、「障がい者とヘルパー」とか、「患者と医者」とか……。(2022.6追記 「傾聴者と話し手とか……)

9

わたしたちは、たまたま日本に生まれてきただけなんです。

郡山総一郎(写真家):講演会「未来ってなんですか」より

講演会のなかで印象に残るセンテンスであった。講演会のなかでつぎつぎに映し出される「爆弾の破片が突き刺さりベッドで呻くイラクの子ども」「足を撃たれ病院に担がれていくパレスチナの子ども」「生まれたときからHIVで社会から切り離され、親から見放され孤児院で隔離される愛に飢えた平均寿命6才のタイの子ども」「物乞いだけが生きるすべである幼い弟を背負った幼い兄や路肩に倒れるフィリピンのストリートチルドレン」「パキスタンへ避難する間に親兄弟が全て殺され、路上で途方に暮れるアフガンの子ども」etc.etc.……を見せられるなかでの言葉。でもたまたま日本に生まれたから「こうした子どもたちのために」出来ることもあるのです、と続く。

(2022.6追記)今なら「ウクライナの子ども、ロシアの子ども」となるかな。ロシア憎けりゃ子どもまで憎い、にならないように祈っている。

10

束縛があるからこそ私は飛べるのだ
悲しみがあるからこそ高く舞い上がれるのだ
逆境があるからこそ私は走れるのだ
涙があるからこそ私は前に進めるのだ

マハトマ ガンジー(1869-1948インド政治家)

とくに育児/保育の名言とか格言というものではないが、子育てに悩む親にはいい言葉だよね。まあ、ガンジーの生涯に比べれば、私たちの悩みなんて大した事ないって……、ふぅ~。

(2022.6追記)
悩みがあるから前に進めるのだ、、、と話し手が気づくといいと思う。

11

1.批判ばかり受けて育った子は、非難ばかりします。
2.敵意に満ちた中で育った子は、だれとでも戦います。
3.ひやかしを受けて育った子は、はにかみやになります。
4.妬みを受けて育った子は、いつも悪いことをしているような気持ちになります。
5.心が寛大な人の中で育った子は、我慢強くなります。
6.励ましを受けて育った子は、自信を持てます。
7.ほめられる中で育った子は、いつも感謝することを知ります。
8.公明正大な中で育った子は、正義心を持てます。
9.思いやりの中で育った子は、信頼心を持てます。
10.人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大切にします。
11.仲間の愛の中で育った子は、世界に愛を見つけます。

「アメリカ」先住民族の教え

まあまあ、ふむふむといった感じかな。それぞれにそうだよねって感じだね。今の日本では、10の「人に認めてもらえる中で育った子は、自分を大切にします。」ってのが結構キーセンテンスになるかもしれない。

(2022.6追記)
○○した子は、✕✕になります、と否定的なことも書いてあるんだけど、どこからでもやり直すことができます。(byアドラー)


12

子どもは自分で発達したいと思っている

池添 素:本「ちょっと気になる子の子育て」より

このセンテンスはセンスあるよな。ちょっと意味がありそうで、ちょっと洒落た言い回しだと思う。子どもというものは、まず自ら発達していくものである。けっして親が発達させるものではない。という意味で、本当に「思っている」わけではないのだけど、「口にはださない」だけで「思っている」のだから、そこんとこを大人である親はちゃんと認識しなさい。って感じかな。

(2022.6追記)話し手も自分で変わりたいと思っている。

13

自分自身に欠けているものが、息子に実現されるのを見ようとするのは、父親の敬虔な願いである。

ゲーテ(1749-1832独 詩人・小説家…)

敬虔ってのは「うやまいつつしむ気持ちの深いさま」らしい。ふーん、そんなもんなんだ。

(2022.6追記)
自分の実現しなかった夢を子どもに押し付ける親は敬虔ではないよな。

14

子どもを育てるとともに、自分たちみずからを進歩させないならば、親は子どもを立派に育てることができない。

アラン(1868-1951仏 思想家)

しかし、時代をこえ、国をこえ、言葉を変えよくでてくるな。どこの国でもいつまでたっても親の勘違いは修正されないってことなのかな?自分のまわりみてみなよ。親っていったてたいしたヤツは居ないって。特に子どもに「偉そう」にいっている親ほど、自分はどうなん?と言ってみたくなる人が多いだろ。みんな成長しよぜ。

15

「個別指導」の必要性を強調することが一人歩きしてしまって、子どものなかに存在する育ち合う力を見失ってはいけません。

白石正久(1957-教育学者(障害児教育))著書『発達とは矛盾をのりこえること』より

たとえば、2歳の発達段階の子どもたちに、その一歩先をゆく3歳の発達段階の子どもと一緒に時間をすごさせる。2歳の子どもたちは3歳の子どもたちの行動に心ひかれ、遠からず実現するかもしれない自分の姿をそこに見いだします。こうした育ち合う力のこと。これも子どもでなくても、いろいろな場面で言えそうだな。集団の中で「育ちあう」という意味でね。

16

子どもがする困った行動を「問題行動」としてとらえず、その行動のなかに彼なりに「伝えたいこと」があると理解する。

白石正久(1957-教育学者(障害児教育))著書『発達とは矛盾をのりこえること』より

読んだとおりである。だいたい「問題行動」と捉えるのは、大人の都合であり勝手な見方なのだ。全てが意味の有る行動と捉えて対応すればいい。って言うほど簡単なことじゃないよな。

17

子どもの発達の原動力は、子どもの生活、彼の活動、まわりの社会的環境と彼との相互関係のなかで生じた内的矛盾である。

コスチューク(心理学者 ソ連)

難しい言葉だけど、解ると深いな~と思える言葉だな。「できるようになりたい、わかるようになりたい」が「でもまだ、できない」という矛盾が「発達」する原動力となり、それを克服しようとする「新しい自分づくりへの願い」が不可欠の側面とし存在している。ってことかな。

18

対象をほんとうに知るためには、そのすべての側面、すべての連関と媒介を把握し、研究しなければならない。われわれは、決して、それを完全に達成することはないだろうが、全面性という要求は、わらわれに誤りや感覚喪失に陥らないように用心させてくれる

レーニン(1870-1924ロシア)「レーニン全集第23巻」

直接子育てと関係なさそうだが、いろいろなことに当てはまる言葉として、白石正久さんが、子育ての場面でうまく要約している。「子どもの発達をほんとうに知るためには、子どもの内と外になるすべての要因の連関(つながり)をとらえようとしなければならない。そのつながりがすぐに全部見えるわけではないけど、そうしようと願う姿勢は、わたしたちを思い込みや狭い視野、感性の減退に陥らないように用心させてくれる。」実に上手い約し方だと思う。

19

親の背中を見て子は育ちません。

池添 素(1950- 教育相談者)「ちょっと気になる子どもと子育て」より

親の頑張っている姿を見せておけば、子どもはちゃんと育ちます、という昔からの言い伝えを「そんなこたあねぇよ」と、ずばっと斬って大変気持ちいい。ようは、ちゃんと子どもと向き合って子育てしなさいということで、背中を見せていては子育てはできませんよ、ということ。

20

離婚したことが子どもに悪い影響を与えるのではなく、離婚寸前、あるいは離婚したのも同然のような両親の関係が、悪影響を及ぼすのです。

グリュック夫妻(ハーバード大学)

ふーん、そうなんだ……。まぁ、そうだよなぁ。

21

名月をとってくれろと泣く子かな

小林一茶(1763-1827 俳人)

どうします。解説によると「名月をとってほしいと泣いてねだる子ども。応えてやれない親のじれったっさと、子どものかわいらしさがうかがえる」などと戯れが書いてありますが、実際に子どもが、くそ忙しく急いでいるなかで「名月とれー」と泣き倒していたらどうします。「うるさい、黙れ」と言うか、「泣かれても、取れない」と言うか、「かわいいね…」と言うか…。うるさく泣いていたら、風流も何もあったもんじゃないと思うのだが…。ここが「子育て」の分かれ道かもしれないな~。

22

嫌なことをさせて、上手くなったという、事例はひとつもないですよ

平尾誠二(1963- 元ラグビー日本代表監督)05.3.17朝日広告

経営者セミナーみたいな集まりの基調講演でのコピーの一つ。当然子育てでも言えると思うので記録しておくことにする。意味は読んで字の如く。ここで気をつけなければ、いけないのは「本当に子どもが嫌がってないか」「好きでしているか」ということ。ここでも「早期教育」を思い出すのだが、「本当に好き」と「親が喜んでいるのが好き」とは、やはり違うと認識すべきだな。
平尾ちゃんの基調講演の紹介のなかで面白い記事があったので併せて記録しておこう。彼の恩師の口癖「おもろいやんけ」と「しゃあないやんけ」がある。この先に起きるかどうかわからない悪い事に備えて怯えていても「しゃあないやんけ」と言う言葉と、先を肯定的にみて今楽しく備える「おもろいやけ」という心の持ち方と、今、本当に何をしなければならないかという真理。もちろん、地震に備えるとか備えないとか、そういう意味ではない。

23

子どもには大人とちがう物語がある
子どもには大人とちがう世界がある
そして子どもは毎日旅と冒険に出発する
何もかも面白くてしかたないから

谷川俊太郎(1931- 詩人)詩「子ども」より

詩「子ども」の肉を省略して骨だけにしてしまった(谷川さんすみません)。すでに詩の形態をなしていない。にもかかわらず凄いセンテンスだと思う。子どもは大人と違うことを認識しなければならない。大人が考える「価値観」「効率」「有効性」「分別」etc.etcなど、子どもにとっては意味ないことなのだ。面白くて仕方ない毎日が過ぎて行く。「無価値」な「非効率」な…ただ面白くて仕方ないだけの毎日を旅してる。これでよいではないか、だって「子ども」なんだから……。そしてそこに「深い意味」があることを大人は知らなければならない。

24

食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこない、また記憶されない。

レオナルド・ダビンチ(1452-1519 画家他)

もちろん言いたいのは後半部分の意欲をともなわない勉強は……、なのだけど、勘違いする親がいるから注釈すると、早期教育の子ども「意欲」は「意欲」でないよ。ここでの「意欲」は「親の喜ぶ顔を見たいという意欲」ではないからね。とは言うものの「意欲をともなわない勉強は、記憶されない」というのは、レオも甘いな。記憶されるんだって。だからなんなの、という記憶だけど。もっとも「勉強」という部分を注目すると「早期教育」は「勉強」でない、とも言えるか。同じ文脈では22平尾の方の「上手くなった」という言い回しのがベターだと思うぞよ。

25

子どもは空を飛ぶ鳥である。
気が向けば飛んでくるし、
気に入らなければ飛んでいってしまう。

イワン・ツルゲーネフ(1818-1883 作家)

よー解らん。コメントしようがない。自分の子どもは気に入らなくても帰ってくるよ。この場合の「子ども」は高校生くらいなのかな。高校生にもなれば気に入らないことばかりで飛んで行ってしまっても不思議じゃないし、ある程度「飛んで行ってしまう準備」をしてなければおかしいでしょ。子どもは自由ということが言いたいのかな。それにしても空を飛ぶ鳥は気が向けば飛んでこないでしょう。飛んで来ても「気分」の問題じゃないと思うぞよ。どの文脈でこういったかが問題ではありそうだが、このセンテンスだけを目にしたので微妙だな。23の谷川と同じ意味合いでいったとするなら、まだまだ表現が甘いぞイワンよ。

26

子どもと大人は『合わせ鏡』のようなもの…。時として、大人がふだんは見たくないと思っている自分の弱さやイヤな部分を、目の前の子どもがクローズアップして見せてくれることがあります。
子どもとの関わりがキレイごとでは済まないというのはこういうことです。否応なしに素の自分をさらけだして、さまざまな自分と向き合わなければならない。だから苦しくシンドイのです。
でも、だからこそ、それ以上に面白くて楽しいのだと思います。

鈴木美佐子(保育士)

コメントのしようがないほど説明的なセンテンスだな。保育士として子どもに向き合い「きれいごと」でないと分析し、子どもによって己の未熟さが露見されることを認識し、そうした自分と、子どもと、自分と子どもの関係性を認め、苦しくしんどいと告白する。そして最後に前向きな姿勢をもつ。会った事はないけどきっといい保育士だと予感する。

27

最も良い教師というのは生徒を悩ましているものが何であるかをいつでも詳しく説明できる人だろう。これらの説明が、考えられるかぎりの方法的知識と新しい方法を考え出す脳力とを、そしてとりわけ一つの方法に盲目的に固執するのではなく、あらゆる方法が一面的であるという信念、および生徒が陥る可能性のあるあらゆる困難にとって最適の方法の一つのメソッドではなく、アートであり才能なのだという信念を教師に与えるのである。

L・N・トルストイ(19~20世紀のロシアの小説家)

トルストイは2度目の登場だが、今回はいいね。かっこいい。取り敢えず「教師」を「親」に「生徒」を「子ども」に置き換えてみるとそうとう解りやすいかもしれない。「一つのメソッド(体系的方法)ではなく、アートであり才能なのだ」だってかっこいいね。そうは言っても「才能なのだ」といわれると、ちょっと辛い面もでてくるな。「アート」で止めておいて欲しかったかな。違う文脈でトルストイは次のように説明している。「どの教師も、生徒の理解におけるあらゆる不満を、生徒の欠点としてではなく、教師自身の教授の欠点としてみることによって、新たなメソッドを発見する脳力を自分自身の中に開発していくよう努めなければならない…」ちょっと解りやすくなったかな?

ひとりっ子であることは、それだけで一つの病気である

スタンレーホール(児童心理学者/米)

有名な格言(珍言)である。よく言われるわりに説明がついてこない。よってここで確認しておくことにする。
1898年児童心理学者の父と呼ばれるスタンレーホールが、当時としては膨大だった381人のひとりっ子の調査をした(当時ひとりっ子は珍しかったらしい)。結果、
1.親から子への過度の介入により
「依頼心の増長」「早熟/子どもらしさを失う」「神経質」「わがまま・甘え・気位が高い」
2.兄弟がいないことにより
「利己的」「嫉妬深い」「友だちができにくい」「社交性にかける」
これらにより、上の定義を言ったらしい。その後の研究で「学問的根拠のない学説」とされたわけだ。まあ出典を知らずに、今どき、こんなことを言う人はほっとけばいいのだが、私のひとりっ子の息子に関しては2点ほどあてはまるので気をつけよーと。

29

(愛とは)自分自身や他人の精神的成長を育むために自己を高めようとする意思

M・スコット・ペック(心理学者/米)

スコット・ペックは上のように愛を定義した。ここでは親子愛にあてはめてみる。自分自身とは「親」で、他人とは「子ども」のことである。(ここでいう『他人』とは自分以外の全ての人のこと)。親は自分と子どもの精神的成長を育むため自分を高めようとするのが『親が子どもに対する愛』と解釈する。と、ある本に載っていた。ここでも前出の内容が繰り返し言われているな。もっとも、親も子どもも一緒に成長することが「愛」であるとなっているのだが。こう何度もでてくるとよっぽど、親であることは難しいということかな。

30

「分離」(ディタッチメント)の前提は、人は自分自身に責任がある、他者の問題を解決することはできない、心配しても助けにはならない、というものである。他者の責任に手を出さず、自分の責任をしっかり持つことである。もし人が大失敗をしたら、甘んじて報いを受けさせる。人がありのままの自分でいられるようにする。責任を持ち、成長する自由を人に与える。そして自分にも同じ自由を与えることである

メロディ・ビーティ(米/作家 1948~ 著書「共依存」より)

ここでの「分離」は「子離れ」ということでいいのではないかな。特に過干渉にならず、子どもが自己を獲得できるように「自由に成長」することを保障する。そして親も子どもから離れ「自由に成長」するといったとこで、当たり前といえば当たり前かもしれぬ。結構なんども同意の格言コメントを書いた覚えがあるな。取り上げてみたけど、たいした言葉じゃないな、とはいても打つのに苦労したから消さない。

31から34は「子どもと歩けばおもしろい」(加藤繁美著)で紹介されているものです。詳しくは著書に任せます。

31

学校にはただ一つの大きな目的がある。それは学校自身をなくても済むものにし、システムとかスケジュールとかに替えて、生命と幸福に─自主的行動として─支配させることである。

エレン・ケイ(スウェーデン/思想家 1846-1926 著書「児童の世紀」)

19世紀での教育を「学校における精神的殺害」と批判し、20世紀の学校とは子どもたちが「喜び」と「希望」を自然に、自発的に学ぶ場として「夢」みた言葉。現実は世紀がすすむほど酷くなっていくと感じているのは、21世紀人の普通の感覚。今後さらに拘束と圧迫とがすすんでいくだろう。ぼくたちは21世紀にどんな「夢」をみることができるのだろうか?

32

誰かが誰かを教育するのではない。
自分を自分一人が教育するのでもない。
人は自らを教育しあうのだ、相互の交わりのなかで。

パウロ・フレイン(ブラジル/教育思想家 1921-1997 著書「希望の教育学」)

ここでは「子育て」というなかで読む。大人(子ども)が子ども(大人)を育てるのではない。大人(子ども)が自ら育つのでもない。大人と子どもが「相互の交わり」のなかで、お互いに育ちあうのだ。と言えるだろう。

33

対話とは、世界を命名するための、世界によって媒介される人間と人間との出会いである。それゆえ、世界を命名しようと思う者とこの命名を望まない者とのあいだには、また言葉を話すと言う他者の権利を否定する者と話す権利を否定されてきた者との間には、対話は成立しない。

パウロ・フレイン(ブラジル/教育思想家 1921-1997 著書「希望の教育学」)

人と人が権力的な関係にあるとき対話は成立しない。対話できる関係を「愛」のある関係としてるわけだな。世界を命名とは、人が言葉によって「人それぞれの世界」を持っている、と考える。つまり、大人と子どもが権力者と被権力者という関係にあるとき対話は成立していない。対話が成立していない関係では、それぞれの「世界」を知ることは出来ない。特に権力者である大人が「子どもが世界を持つことを否定」した場合、対話=愛が存在しないということになるわけだ。

34

幼児の創造性が真の創造性、即ち無からの創出でないことは明らかである。しかし一方、その模倣は機械的、無自覚的なものでもない。幼児は借用しつつ創造するのである。…模倣の度ごとにそれは選択を、そして結果的には原型からの創造的逸脱を要求するのである。

ヤコブソン(言語学者)

子どもたちは周囲の環境との折り合いをつけるために、自分にとって必要なもの、価値あるものを能動的に選び取ろうとする。そして、その際、教えられたことを受動的に「学習」したりするのではなく、主体的に選び取ろうとし、その結果として「原則」から逸脱することになっていく。(加藤繁美解説)

35

他者から存在を丸ごと肯定された経験、尊重された経験を通して、自己肯定感は育っていくので、プラスのスパイラルの人間関係に身を置くことが「人権感覚」を養う。

水葉(カウンセラー)

うーん、何度でも確認したいよね。子どもにとって如何に自己肯定感が必要かってことを。まず親が子どもを丸ごと肯定しないでどうする。親からちゃんと肯定され尊重された子どもは、きっと友達にもそうした態度で接するだろう、そうした友達関係がプラスのスパイラルとなって、まず、お互いを認めあう関係ができるんじゃないのか。ってことだね。



途中で同じことの繰り返しになってきたので(2022.6追記)はやめてしまったけど、全てにおいて、「子育ての格言」に収まらない人間や人間関係の本質を言っているよね。

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