「はじめてのお使い」は虐待ですか?@埼玉の条例案

「子どもの虐待死がありました」と言う声がテレビから流れ、怒りに震える。
虐待された生育歴で心の傷が癒えないまま苦しむ大人の話をいくつも聴く。
DVが世代を超え繰り返されることも、実際の声を聴き実感として知っている。

他にも多々あることを知っています。
それでも敢えて言いたい・・・・

別に言わなくてもいいのだけど・・・

言うのか、言わないのか、どっちやねん???ロックンロールショー^^;

とりあえず息が詰まりそうなので口調をオリジナルトーンに戻します。

週末にとある食事会があったんだよね。
そこでさ、とある一人が、「あまりに聞き分けのない孫を庭に締め出した」と軽く言ったのよ。
傾聴なら、そんなこともあるよね腹立つよね(と、自身で落ち着いて振り返るときを待つ)、、、なんだけどさ。

その席にいた、他のお二人が「それは虐待だぁ、通報されるぞ」とすかさず言ったの。言ったなんて感じでなく、糾弾する感じね。
軽い気持ちで「締め出しちゃった」と言った人は、厳しく指摘されてポカ〜ンって感じ。

そのお二人は、その筋の専門家で、甘い考え方を指摘して認識を変えさせる、って心はミエミエだったのさ。
(ほんとの心理は、「指摘している自分は偉いだろぉ」だと思う)
正直に言えばアタシも虐待に対する今の法律やら認識を変えていこうという流れは知っているうえに、昔は他愛もないことに「それは差別だぁああああ!!」と、指摘しまくっていた人間なので、指摘するお二人の気持ちは分からなくもない。(はい、ご想像とおり「差別の構造を知っていて指摘できる自分に酔っていた」んですけどね、オレ偉いだろぉってさ、爆!!)

なので、お二人さんの、はい、おっしゃることはもっともですがね。

いまのアタシは、「なんでも指摘して」「なんでも糾弾する」ことを近視眼やら視野狭窄って感じていて、どっちかというとゆっくりでも本人が考えて自覚しなくちゃ意味がないと思っているのさ。

その場で指摘すれば、「締め出し」は止めるかもしれないけど、通報されるから止める、法律違反だから止める、であまり意味がないと考えるようになった。

ちゃんと考えてわかっていれば締め出しでもOKじゃね、とさえ思えてしまう。

最近話題になった埼玉あたりの条例もそうだけど、虐待防止の法律ってのも画一的で思考停止なんだよね。
AII or noting、白か黒かでグラデーションがまるでない。
まとめて禁止にしとけば虐待防止になりいいだろうってのが見えて仕方がない。

だいたいさ「はじめてのお使い」だって虐待になるだろうし、昭和の子育てなんか虐待ばかりで全否定だよな。
でも、昭和の子育てはそんなに酷かったか?
昭和の子どもだった、おっさんも、おばはんも、「現在で言うとこの虐待」をいろいろやられたけど、嫌で辛いばかりじゃなかったよね、でしょ。

頭をコツンとやられたら、子どもは痛いかもしれないけど、親だって痛いのよ心が、、、、って親になった今だから解るんだよね。
それで、親だって苦しむし、考えるんだよ。

子どもは、頭をコツンとやられたり、締め出されたりされた悲しみや怒り、不安、葛藤そんな複雑な心をもつ。そして許されたときの反省や喜びを知る。でも法律(条例)でそんなこと全てを奪い取る。
親(大人)の、思わず殴ってしまったときの心の痛みや後悔、葛藤しながら親(大人)として育っていく機会を一律に奪い取る。

法律(条例)によって経験することを奪われ、思考する機会を奪われ、いわば無菌室で育てられた子どもが親になったときに、その子どもはどうなるのか?

子育ては、条文で一律に語れるほど単純じゃない。
親自身が育つのも同じで、複雑なのよ。
「虐待は当然いけないもの」であるという感覚も、法律で禁止されているからやらない、という薄っぺらなものではなく、実感をもって積み上げていかなければ、子どもも親も真の育ちは得られないんじゃないかな

、、、、、なんちゃって、笑


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