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ボクの「写真」は自己満足

 最近たてつづけに写真についての会話が続いたので、ちょっと写真のことを考えている。
 告白しよう。実はnoteに写真をupしたあと、自分でupした写真を自分で見つめ返してニヤニヤしている。それが1度や2度ではない。5度、6度、そして定期的にかなり過去の写真まで遡り見つめてニヤニヤ。つまり一つのnoteにupされた写真を数十度はみつめてニヤニヤすることになる。傍目にはかなり気色悪いヤツに映るのだろうが、ニヤけて来るので仕方ない。
 ほとんど何も考えずにニヤニヤしているのだが、こうしてnoteを書くにあたり、あらためて考えてみると、切り取られた森の息吹を見つめていることもさることながら、切り取った自分のセンスにうっとりしているのだ。
 街でも、森でもいいのだけど、まず「それ」に目が留まった自分のセンスにニヤニヤ。森を歩いている他の人をみても、誰も足を止めない。誰も見ようとしない。ボクだけが「それ」に目がとまり、ボクだけが「それ」を見ている。「それ」を見つめることができる。たまにすれ違う森歩き人に「何を撮っているのですか?」と尋ねられるが、けっこう困ることが多い。「蔓」とか「枯れ葉」とか「切り株」とか言っても通じないことが多いから実は「話しかけないで」と祈っている^^;
 さらに「それ」と出会うことができたら集中したいということもある。ボクにとって輝く「それ」はその時しかない。昆虫など動くのであれば当然だけど、切り株など動かないものでも、光やそこに生える新芽や、周囲の草木や、水滴や風や何もかもがその時だけの一期一会である。
 もちろん、ボクが出会うときよりももっとドラマチックに生きている「それ」はあるのだろうけど、ボクにしてもボクがドラマチックだと感じた一瞬に出会えたわけだ。
 そこから左右や上下や前後に動きアングルを決め、「それ」をひきたてる背景を決め、背景に泡立つボケやにじむボケなどのライティングを決め、ピントの位置を決めそっとシャッターを押す。もっと「それ」が引き立つアングルや絞りピントがないか探し、さらにもう2-3ショット決め。シャッターを切り終わったら少しの間、生の「それ」を目に焼き付けて別れを告げる。
 そうしてカメラに収めた、ボクの「それ」をPCに移し、ひとつの「それ」の数ショットをならべ、目を閉じ、目の裏に焼き付けたそのときの生の「それ」のイメージと一番ちかいものをチョイスupする。気分が乗っていれば短歌など添えてupしてみたりする。
 ボクが見出し、ボクが見つめて、ボクが撮影し、ボクが選び、ボクがupして、ボクがニヤニヤする。つまり完全に自己満足の世界なのだ、笑。
 (昆虫の場合は「記録写真」のこともあるが、最近では昆虫もなるべく一番輝くように撮りたいと思っている。)

 写真家という職業がある。多くは他者の指定する「それ」を他者の感覚を満たすように写真をとるのだろう。もしくは他者の感覚以上の満足を提示する。いずれにしろ他者満足を得るように。他者の満足を得るのはそれはそれで楽しいことだろうし、そうした写真のとり方もあるだろう。でも少なくとも自分の感性で出会った「それ」ではない。
 ボクはそれをしなくていい素人であることで自己満足を気兼ねなく得ることができる。それは幸せなことである。
 ただ写真家といっても芸術写真家であれば、自己満足の「それ」が自己満足の表現となり、それに共感をした他者がその表現の結果を手に入れたいということがある。
 写真家にとってそれは幸せなことかもしれない。自己満足に他者が「共感」するということ。他者に認められたり、他者が感動したことに関われるのは幸せなことだと想像する。それで代価が得られて生活できるならば、自己満足だけで生きることができるならば、想像できないが、さらなる自己満足に没頭出来る分楽しいのかもしれない。
 では代価が得られないボクはどうなのだろう。代価が得られずそれで生活はできないけれど、ボクは満足である。自己満足だけいいことが保証されている。とはいえ、ボクの自己満足の表現にたとえば「スキ」としてもらえれば、共感が得られたという楽しさはある。それだけとれば代価が得られる芸術写真家と同様に楽しい。代価などという評価基準がないぶん、純粋に楽しめる。ボクの表現の代価がこれだけなの?なんて筋違いに落ち込まなくてもいい。それに芸術写真家は生活のため共感を得ることが必須課題になりやすいだろう。ところがボクは共感を得ることができなくても自己満足だけで楽しいのだから自己だけ楽しんでいればいい。共感が得られたなら「このうえもない楽しさ」になるわけだ。
 この楽しさは多分、ボクの生きるの全てに繋がっている。思索するときに誰も気づかないようなボクだけの視点を探しているし、傾聴のときもボクだけの耳をもって聴こうとしている。その逆もまたしかり、思索や傾聴が森を歩く時の、ボクだけが見る「それ」に気づくことに繋がっているに違いない。すべてが楽しく、すべてが繋がっていく。すべてが自己満足かもしれないが、共感が得られるかもしれない。こんな風にしてボクは「生きてる」だろうなぁ、と考えている今日このごろである。

 少し追記をしよう。
 たとえば思索ならば、先達の言葉、本、友人との対話など「頼る」ものがある。傾聴ならば当然「話し手」に頼る。そのように写真で頼るのは「カメラ・レンズ」である。いずれも自分に合うものがあるし合わないものもある、自分を引き出してくれるものはあるし、そうじゃないものもある。頼りになる相棒が自己満足を大きく引き出してくれると思っている。
 写真は撮りはじめてもう30年ぐらいになるか?ようやく自分に合うレンズにであった。自分の感じる表現を自分が感じる以上に引き出してくれる気さえする。こうした相棒に出会えたのも自己満足に磨きがかかったに違いない、笑。

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