判断するのをやめる。決めつけるのをやめる。

♪なんであいつを悪いと決めた
誰があの娘を哀れと決めた
どうしてあいつを選ばせた
後先も考えず……♪

知らぬうちに泉谷しげるの古い歌を口ずさんでいた。
そうなんだ。
なんで、あいつを悪いと決めたのだろう?
決めてしまえば楽になれる。
悪いやつだからと壁をつくれば迷わずにすむ。
あの娘を可哀想な奴としてしまえば扱い方が決まる。
哀れな奴だから、助けてあげようの一択になる。
判断しなければ不安になる自分のために、他者にレッテルを貼る。
決めつけなければ、どうしていいか解らない自分のために自分を縛る。

ここのとこ、そんな風にいくつかの判断をしたりされたりしていた。
そんな自らに雁字搦めになり息が詰まりそうになっていた。

判断し決めつけると思考がとまる。
あいつは酷い奴だ、近づくのをやめよう。
確かに酷いかもしれない、でもそのことしか見えなくなり、世界は停止する。
目はみえなくなり、聴く耳も失う。

奴から決めつけられたオレも思考が停止する。
オレは傷ついている、と決めつけられる。
それは呪文となり暗示をかけられる。
あれ?オレは傷ついているのか?
傷つかなければならないのか?
傷ついてんなんかいないのに。

すべてに判断が求められる。
生きていくのは判断の連続だ!!
偉そうな教師がポーズを決めて言っていた。
そういう教育がされてきた。
分岐点ごとに決断しなければならい。
合理的でなければならない。
こうすれば、こうなる、、で安心する。
ああすれば、ああなってしまう、と視野狭窄が起きる。
現代人は、因果律が大好きなのである。
「生まれてきたら死ぬ」という唯一正しい因果は見ぬふりをするのに、
どうでもいい細かな因果には執着してしまう。

ほんとは、どんな可能性もあるって知っているのに。
正しさはひとつではないと、知っているはずなのに。
価値なんて視点の数だけあると解っていたはずなのに。
決めつけてしまえば、それ以外の可能性は遮断されるのに。
他者に対しても、自己に対しても。

もういい。

もう判断するのをやめる。
判断しそうになったなら、ぼんやりと大きく観ることにする。
すべての可能性を見落とさないように。

もう決めつけるのをやめる。
決めつけそうになったら、ぼんやりと広く聴くことにする。
すべての可能性を封鎖しないように。

ぼんやりと見つめ続ける。
ふんわりと聴き続ける。
そうしていつも微笑んでいる。

きっといつか見出される新しいあいつの可能性のために。
オレ自身の可能性のために。

何も見出されなくてもただ生きていられる世界のために。


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