苦しいです、でも、おめでとう、

新年早々、喜びの朝に水を差すようで気が引けるので、気分を害したくない方はスルーしてくださいm(_ _)m

とりあえず、今年の初ショットでお茶を濁そう、笑


来年の今頃ここに、というか、この世にいないかもしれない、と割に真剣に考えたから越年は徹夜で苦しみの声に耳を傾けようと思い実行した。
正月だからといって日本全国すべておめでたいわけでないことぐらい誰でも知っている。知っていても、“あけましておめでとう”。それでいいではないか。
「苦しいです」と「おめでとう」の課題の分離である。
という意味でいけば、おそらくボクの課題は「苦しい声」を聴きたい、ということだったに違いない。
別に聴いて、自分のほうがだいぶマシというのを実感したいわけではない。
では、聴いてどうする、というのだ。
何かできるわけでない。
年が変わったから誰かの苦しみがご破産になるわけでなく、
新年になったからこそ苦しみが増すことさえある。
日本全国「おめでとう」だからこそ、苦しみを聴いているヤツもいるよ、を実行したかった。
なんか偉そうだな。
別に広報したいわけでなく、訴えたいわけでもない。
自己満足である。
ただ聴くことで、少しでも、ほんの少しでも誰かの苦しみが和らぎ、ほんの少しでも新年そうそう楽になれればそうれでいいじゃないか。
ほんの少し楽になった空気を貰うことができればボクだって浮かれるさ。
言葉だけの“おめでとう”じゃなくて実感を分けてもらえる。
思った通り分けてくれた、、、さ。
だから、苦しいです、でも、おめでとう。

長い夜がおわり、重いドアをあける。
ああ、外はこんなに冷たかったんだ。
眩しい光だ。
室内の火照った頬に刺すような朝の空気がとても気持ちいい。
普段の車たちもいない朝の街を遠回りして帰るとするか。
いつもの街の街路樹もホームレスの越冬小屋も護国神社の初詣worzでさえもお堀の氷もその氷のむこうの水鳥も輝いて見える。
「おめでとう」も「苦しいよ」も生きている。
生きているさ。
さて今年も今日を生きていこうぜ!!
今できることをやっていくさ、それが生きているってことだろ!?

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