なんでボランティアなんかしてるんですか?

森のなかでカメラを構えファインダーを覗いている。
ふいに後ろに人の気配に気づき振り返る。
「何を撮っているんですか?」と問われ戸惑う。
「枯れ葉と光を少し…」と小声で答える。
落胆さえない不思議な顔をさせてしまい気まずさが漂う。
しったこっちゃない。
森の息吹に触れる。あらゆる生と死、光と影を感じ森に力を貰う。
それがボクの生きることだから。
共感されなくてもいいさ。
身体と五感のすべてで森を感じることができればそれが幸せなのだ。

むかしホームレスと一緒に過ごしていた。
「なんでボランティアなんかしているんですか?」と訊かれる。
返答に困り「楽しいから」と答える。
軽蔑を隠すような表情をさせてしまう。
言葉では説明できないんだよね。
感性の問題だから。
そこが楽しかった全精力をそこにつぎ込んでいた。
そこが生活の場だった。
ここで死ぬならそれでもいいや、と思った。

今、傾聴をしている。
「他人の苦しみなんかよく聴いてられるな」と言われる。
ボクは何も答えないで微笑んでいる。
そう言う人にどんな言葉も伝わらない。
ボクにとっては、やはり楽しいからである。
人間がみえる。心にふれて、心を震わせる。
心の素直さと、アタマの頑固さを識る。
言葉の誠実と、言葉の頼りなさを感じる。
心で感じ、言葉を紡ぎ、言葉から飛び立ちながら生きている。
一つ一つを感じながら、人が生きるこをを見つめる。
人は孤独だと識る。天上天下唯我独尊。
孤高であれと思う。
そうして生きる、そのものを見つめる。
楽しい。

楽しいから、全身全霊をこめて打ち込む。
だって楽しいんだから。
楽しいから得ることばかりだ。
いや、得ることばかりだから楽しいのか?
「こんな写真なんなの」と思われてもいいさ。
ボクの感性の証なのだから。
この感性を道連れに生きているのだから。
「ボランティア偽善野郎のええかっこしい」と批判を込めてレッテルを貼られてもかまわない。
ボクが生きること、それがたまたま世間ではボランティアと呼ばれていただけのこと。
似非でも、偽善でも、暇人でも、心の隙間を埋めるでもかってに思ってくれていい。
ボクの生きるとは関係ないさ。

ボクは自由だ。
すべてを好き勝手に全力で向き合って生きる。
すべてが生活なのだ、本道も脇道もない。
分離不可能。
すべてを含め生きるということ。
こうしてボクは満たされていく。
満たされ存在している。
右往左往しながら、上下に振れながら、
滑りながら、転がりながら、すべてを楽しみんながら。
やがて力の限り向き合えなくなったら死ぬのだろう。
野垂れ死にだ。
それでいいさ。


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