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近所の変なおじさん

 宮台真司共著の「子育て指南書 ウンコのおじさん」を読んだ。
 正直にいえば宮台真司が嫌いだった。嘘。嫌いというほど知らないし、付き合いがあるわけでもない。なので、たまにカチンとくる台詞を聞いたことがあるような、ないようなぐらいで、よい心象はもっていなかった。ぐらいのこと。
 ところがである、へぇ〜、いいヤツかも、と思わせた本。
 ちゅうか、ワタシと似ていて子ども好きなのである。まあ決定的な違いはあるし、その違いが結構ポイントなんだけどね、笑。
 さて宮台はというと、自分の子どもとセミの脱皮をじっとみつめる、アニメを一緒にみる、近所の子どもにちょっかいをかける。子どもの通う幼稚園で、小学校でちょっかいをだす。小学生の通学路にウンコの絵を描いてウケる。近所の変なおじさんである。
 ボクも結構「近所の変なおじさん」だったかもしれない。もっとも近所には子どもがいなかったのだけど……、意外と子ども好きなのだ。
 ボクが最初に「子ども好きだな」と言われたのは、ツレの結婚の披露宴だった。どこかの子どもが宴会場をウロウロしている。そんななか近づいてきた子どもに話しかえける「ケーキ食った?」「どっからきたの?」「何歳?」「ろ、六歳」「じゃケーキは食えても、ビールは呑めないね、笑」「呑めるよ、ちょっと」「呑んじゃだめじゃん」「パパのビールをちょっと呑んだことあるもん」「やるなぁ〜、美味かった?」「まずい」「だろ、だろ美味かっただろう」「ちがう、まずいの」…ちょっとした仲間になるのが面白いのだ。それを見ていた同席の旧友に「毒多、子ども好きなんだ」と言われて、子どもをみたら話しかけるのが普通だと思っていたボクにとって意外に新鮮な指摘だった。
 街に出かける。信号待ちの後ろに立つ。ママに抱かれてママの背中越しにキョロキョロしている赤ん坊にはかならず、顔で話しかける。舌をだしたり、つり目をしたり、、、、するとちょっと反応がある。笑うことはまあないが、顔をそらしたり前をみたりするわけだ。でも、ちょっとするとまた背中越しにこちらを見る。完全に興味を持って見られている。するとなんかワタシもワクワクして、凝った変顔をしてみせる。、、、周辺の通行人の反応がするので、それほど派手にはやれないし、ママが振り返る可能性を考えるのでほどほどで辞める。ママに抱かれるくらいの赤ん坊では、それほどのリアクションを期待できないしね。
 これが幼稚園ぐらいになると面白い。
 車を運転していると偶然、幼稚園のスクールバスの後ろについた。信号で停止すると、バスの後ろのガラスには、最後尾の小さな椅子の背もたれ越しに外をみる子どもたちがいる。これはチャンスとばかりに両手の親指を左右それぞれのこめかみあたりに固定し、指をヒラヒラしながら舌を出したり引っ込めたりする。ベロベロバ〜、これは即ウケる。めちゃウケる。子どもたちが騒ぎ始める。すると同乗の先生がなにごとか、とこちらを見る。ワタシは動作をやめて素知らぬ顔でやり過ごす。先生が前を向いたとたんに、再度やるベロベロバ〜、、、また子どもたちにバカウケなのだ。子どもたちは先生に一生懸命、目を輝かせて説明しているんだろうなぁ、と想像すると嬉しくなるのだ。これも子どもたちのとの仲間意識。
 そういえば保育園時代はめちゃくちゃ子どもたちと遊んでたな、笑。
 いずれにしろ子どもは面白い。反応が面白い。明るい気持ちにさせてくれる。と、ボクの場合はたんに自分が面白くてするのだが、宮台は理由を言う。子どもたちが育つのには、近所の変なおじさんが必要なのだ。と。ね、ここが決定的に宮台とボクとの違い。理由をいい解説をつける。まあ、仕方ない、宮台は社会学者で「子育て指南書」という本でものを言うわけだから。

 昔は必ずいたという近所の変なおじさんは、子どもたちの豊かな発育のためにちょっかいを出すべき、なんて理由を考えたとは思えない。なんとなく子どもたちに上手く作用されていただけなんだろう。
 それでいいのではないか? 子どもたちは笑顔に満ちるし、自分も楽しくなれる。なんてことさえ考えずに自然に子どもと絡んでいたのだろう。子どもにちょっかいを出す日常は豊かなのだ。解説なんていらない。
 もっとも今そんなことをやろうものなら、「不審者」として通報されることを覚悟しなければならない。それが「普通」になっている。そして近所の変なおじさんは絶滅種となりレッドデータブック状態である。なんとも貧しい社会を生きているのだろう。
 だから宮台のように意識的にやることを推奨することになってしまうのかぁ、、、。思わずではなく意識的にね。
 なんだかな〜とほほ、なんて感じるのは、もう古い人間なのかもしれないなorz
 

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