「面接官」のつぶやき

じつはとある福祉法人の就職面接官をしています。
子どもの保育でお世話になり、今も仕事でお世話になっている法人なんですが、頼まれてやってます。
ちなみに無償です。
法人にしてみれば組織外部の意見を聞く、ワタシには人間を識る貴重な機会ということで利害が一致しているということですね。

過日の就職希望者は、すでにこの法人の障害者施設でパートとして15年以上働いてきて、この度、正規職員を希望するという方でした。
もう採用は既定路線で、形式的な面接と勝手におもっていました。
この方が書いた作文には、言葉を発することができない重度心身障害者と長年対峙してきた結果、何を欲されてるか何を考えているのか分かる、と書かれていました。
ワタシはこの話に興味を持ち、面接でもそのことの質問をしました。すると何やらを自信満々に答えられていました。
具体的な話が聞けたわけではないのですが、短い面接の時間では、まあこんなもんだろう、と思っていました。

面接後には、面接官だけで合否の検討会になるのですが、ベテラン面接官は「あの自信の持ち方に疑問を感じる」というかなり辛辣なものでした。
長年施設の長として現場で多くの職員と接し、さらに今は法人全体の役員として施設長達の指導もする感覚の目線です。
ワタシは自分の人を観る目の不用意さを考えさせられました。
経験年数が長い、自信満々で話すということだけで「信用」を前提に質問していました。
ワタシ自身は、福祉現場での就労経験はなく無知なわけです。
でも、よく考えたら相手が障害者だろうが健常者だろうが、「他者の内面が分かる」と自信をもって言い切ってしまうことに違和感を覚えなければならなかったと、今になればよく分かります。
さらに、他でやっている傾聴ボランティアの先輩方にも経験年数は長いものの「解っている」と自信満々の自己流の人はざらにいて、それを思い出せば見抜けたと・・・。

それが仕事だろうがボランティアだろうがなんであれ、人と対峙するということを知れば知るほど、あらたな課題が見えるようになってくるのが本来でしょう。経験を重ねることで自分の無知を知る。なにかしらを解ったような気分になることは本当に自戒するところです。
そして、オノレの無知を知れば謙虚になるはず。

最近のワタシも、自信が似非であるという自覚がないままに、振りかざすという罠に陥ていていたかもしれません。
敢えて気をつけていなければ陥りやすい罠なのかもしれません。
常に自分をみつめる。
自信がついてきたら、その自信を疑ってみせる。
そして自信が虚栄だとわかったら、またやり直す。その繰り返し。
おそらく結論にたどり着くことはないでしょう。
確固たる自信はいつまでも得られないまま、例外につぐ例外と対峙し、自己の無力を知りながら、それでも謙虚に継続していくことになるのでしょう。
ゴールのない旅をしているようです。

人生かよ、と、ふと呟いていました。


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