選定委員

障害者というのは、この社会基準の、つまり多数であり、普通の、と自称する定型発達者がきめた基準にたいする「障害」のある者で、障害者などと称するのは多数で普通の傲慢である、と言ってみたところで、現実には障害者には生活しにくい世界がひろがっている。

多数で、普通と、カテゴライズされる定型発達でさえ、ちょっと気を抜けば生活しにくくなるのだから、障害者にとっては自在にならない心身とそれを障害とされてしまう社会という2重の「生きにくさ」を生きている。
と、言葉としては考えられても、実感がなく想像である以上ワタシには「解る」とはいえない。

そんなワタシに「選定委員」になってくれないか?というお声がかかった。部外者として忖度のない意見をだしてほしい、ということだった。言葉上の想像から少しは実感に近づくかもしれない。ありがたいことだ。二つ返事で「なります」と返事をした。

新しいグループホームをつくる目処がたった。「障害」者が24時間365日生活する居場所の誕生である。
グループホーム入所の希望者を募る。定員の3倍の希望がだされた。
書類に目を通す。一人ひとりじっくりと。

あぁ、言葉にならなかった。

そういえば、ブログで知り合った障害児の母の、「自分が死んだらこの子は」という話題がよくある、という記事を読んだことを思い出す。
まさにその状況が並ぶ。

現在60歳の重度の障害の息子をずっとヘルプしてきた85歳の母親。父親は認知症になり、、、父が心臓病で倒れ、、父母とも腰痛がひどく、、母親が亡くなり、、母も身障になり、、自らの人生を子どもに捧げた80歳以上の親が切実な声をあげる。反対に、この子が手から離れると何をしていいのか解らない自分を知っているやはり80以上の親、、、、それでも、自らの寿命を推し量るかのようにグループホームに託したいと綴られる。

多数で普通のワタシは絶句する。
どう選定しようというのだ。
部外者として何を言えというのだ。
他の選定委員は、各障害者施設の管理者ばかりで、そう、多くを解っている人たちのなかで……

かろうじて言えたのが、「職員はどれだけ必要なのですか?」
利用者ひとりに一人の職員の可能性がたかい、、、しかもベテランでなくては難しいだろう。
「24時間、365日、かなりの人数になると思うのですが、確保できるのですか?」
そんなことは素人の部外者に言われなくても、重々解っているだろう。緊急の課題であることは百も承知だろう。

普通で多数で部外者で素人のワタシはビビっている。
障害者とその親のいる環境にビビり、職員体制づくりの難航を想像してビビっている。なにより、社会に適応してしまった弱い自分にビビっている。

ビビっているワタシ以外の選定委員はみな笑っているのに。
「必要なんだから、絶対になんとかなる、なんとかする、できるにきまっている」と言わんばかりの余裕を感じる。

あ、これか。これなんだ、と、ワタシは目を醒ます。

もともと疎外された障害者にかこまれて生活(仕事)をして、そこからの強さをもっている人たちの、ビビったところのない笑顔がある。
そんな笑顔に囲まれて幸せを感じるワタシがいた。

そういえば昔青カンに囲まれて生きていたころは、今のこの人たちみたいな感じだったかもしれないなぁ、とふと過ぎった。

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