LGBTの講義から思索した「区別」とか「差別」とか

LGBTの講義を聴講したので忘備録。
LGBT当該の講義を聴くのは3回目。
3度ともLGBT当該の講師といってもTつまりトランスジェンダーの方が講師なんだよね。しかも3人ともfemale to male、つまり身体が女性だったけど心が男だったという方でした。偶然かもしれないし、何かあるのかもしれませんねぇ。
今回の講義もそうですが、T当該の講師の「人柄」はよかったです
最初にうけた講義のLGBT当該の講師は、少し力が入っていましたが、二度めの講師と今回の講師は穏やかな感じですね。もしかしたら「大きな壁を乗り越えてきた」余裕なのでしょうかね。
年も若そうでも自信がにじみでているようで、となるとLGBTで辛い思いをしたこともまんざらじゃなかったかな、なんて思ってしまっうのは安直すぎるでしょうね?
でもLGBTでなくても「大きな壁」ってのは、そこさえ乗り越えられれば自信と余裕でもって穏やかな人柄になれるような気がするんです。

個人的には、今回のLGBTの講義の「肝」は一人の質問に尽きます。
その質問は、、、遠慮がちな質問だったんですが、端的にいうと、
「トランスジェンダーが性同一性障害と言われてるけど、「障がい」と呼ばれることってどうよ?」と当該に問うたこと。
結局、講師も「人(当該)それぞれ」としか答えようがなかったみたいだけど、ワタシはここにひっかかったのです。

ワタシの聴いた1回目のLGBT講義では、身体の性(2通り・男or女)✕心の性(2通り・男or女)✕好きになる相手の性(3通り・男or女orどちらか決まってない)の(2×2×3の)12通りの図がでてきたんだけど、今回の講義ではそんな図もなく、LGBTと一口でいってもグラデーションがあり分類できないほど細分化されていると言ってましたね。ワタシや多くの人がそうである、身体と心の性が一致していて異性を好きになるヘテロセクシャル・シスジェンダーまでふくめてグラデーションであるってことが講演でいわれてました。
それを認知できれば、LGBTという言葉もなくなり講師が言う「誰もが生きやすい社会」になるんだろうねぇ~、との想像はできます。

ところで、そもそもですよ、LGBTって自然と思いますか?不自然だと思いますか?
答えを先に言ってしまえば自然だとワタシは思うんですね。
LGBTになろうと意図して生まれてきたわけじゃないから自然ですよね。LGBTどころかすべては自らの意思で意図して生まれてきたんじゃない。
LGBTのほかにも先天性の病気をもって生まれても自然だし、サイコパスのような性格で生まれても、優しい性格で生まれても、小さく生まれても、大きく生まれても、ブサイクでも美人でもイケメンでもダサ男でもなんでもかんでもすべて自然です。
最近他所様のnoteで読んで改めてハッとしてグッときて、妙に納得したことなんだけど、自然は多くのタイプの人間を世に発生させることによって、いかなる環境になっても種として生き残れる可能性をのこします、っていうようなことを読んだの。あらためて考えてしまいました。どんな風に生まれても自然でなのです。
たとえばさ、芸能人なんかが浮気で叩かれちゃったりするけど、あれも浮気をしないではいられないタイプに生まれてきてしまったから、そう生きざる得ないの。意志で変えられない自然なの。道徳じゃないの。だから叩いて責めても仕方ないの。
生まれながらに浮気をせざる得ないタイプってことで、それにマッチした環境になったときには、種としての人類が継続に役立つわけだから。
まあ、今の環境(いまの日本の社会という環境、文化や習慣や価値観や・・・)では、叩かれちゃうんだけどね。
みんなちがってみんないい、なんてみすゞちゃんは言うんだけど、その「ちがって」も所詮、社会的法律的道徳的な範疇なんだよね。
きっと自然ってのはそんなとこに収まらないのさ。

でもね、人間はそんな自然な環境に身を委ねるばかりじゃなくて、環境を変え、社会をつくり助け合うことで生き抜いてきたっていう別の一面がある。ネアンデルタールは滅んでホモ・サピエンスは繁栄した理由ってNHKでやってた。
いろいろな社会という歴史を重ね紆余曲折のちに「人権」という観念ができて、全ての人が別け隔てなく生きていこうという目標を掲げるまでになったっていうのが、今ここね。
すばらしい理想なんだけどさ、実際の社会では無条件で「全てを別け隔てなく」が実現するほどの度量も能力もなく、多数(マジョリティ)が生きていける社会しかできないんだけどね。というか、先にも書いたように自然はどんな環境でも種として生き残れるあらゆるタイプの人間を排出するわけだから、絶対に全ての人を包括する社会環境ってのはできないわけなのよさ。
でも社会ってやつは、なんとか一人でも多くの人を受け入れるため、多数から離れた生まれながらの性格etcにしても、その社会の枠に入るよう「教育」します。
社会の一員になるってのは教育の目的で、つまりはそういうことなの。
どれだけ教育しようとも、社会的な多数にならない人もいるよね。
実際に「生きづらい」って訴えているLGBTもそうかな。
それでも社会は、そうした人を「LGBT」とか「障害者」という区別して新しい制度によって特別支援することにした、ってことだと思うのさ。

どうもね、この「区別」ってのが曲者なのさ。
制度以前に人間は「区別」したがるし、「区別」は容易に「差別」につながる。
そもそものおおもとで人間ってやつは、「人間」っていう区別をして他の何もかもより一番上位の「人間至上主義」として「差別」化しているわけです。
他のどんな種が絶滅しようと人間至上です。そうして人間は安心安定を得ようとする。
でもそれだけじゃ安心できない。
人間のなかでも必ず優劣を決めようとするんだよね。
白人黒人黄色人、欧米人アジア人、大人子ども、金持ち貧乏、、、勝手に優劣を決めて誰もがなるべく「優」のグループに入りたがる。優にいることで安心していたい。
制度として「区別」もある。士農工商穢多非人もそうだし、地主と小作、インドのカーストもそうだし、年端もいかない子どもが「スクールカースト」なんてつくってしまうのも人間の本性を表しているのかもしれない。
支配者が人民大衆を「区分」して一致団結させないようにした、ということもあるけど、人民大衆のほうだって自ら区別してなるべく安定して安心したいというのはあるような気がするの。
最近のテレビ番組でもさ、人が適当に線引をした「県」の優劣を競ったりしていて笑っちゃうよね。
まあ、何が言いたいかというと、人間にとって区別はつきもので、それは容易に差別に繋がるってことだ。

もちろん人権を重んじる社会はこれを是正しようとする。
先に書いたように、制度として「区別」して特別に支援するとか、「差別はやめよう」と呼びかけたりね。でも新たに「区別」をつくることと、それによってあらたに「差別」をつくることの微妙な感じがいつでもついてまわる気もするのさ。

講演のなかであった質問に戻りますが、「性同一性障害」というのは「区別」ですね。
「障がい」といわれることを認めます、というのは、今のこの社会で生活していくうえで、制度としての「区別」を受け入れ社会からの支援をうけますか?
ということなんだろうね。
マイノリティであっても「区別」なしに制度もなしに、望む方向ですんなりと向かうことができればいいのですが、先にも書いたように社会とうシステムの限界でそれはできません。
「障がい」という「区別」を受け入れるも受け入れないもいずれにしろ、この限界をもった社会で生活していかなければならない。
質問は、じゃ、マイノリティ当該はどういう態度で望みますか?ということなんです。
これはマイノリティ当該じゃないとリアリティのある声を聴くことはできないので、興味のあるところです。
でもさ、やっぱりLGBTという区別だけで、何かを言えるわけはないよね。
これは血液型A/B/O/ABという区別だけで、何か質問されても、それだけで答えられないと感じることと同じでしょう。A型だけど、だから何?ってね。
それは一つの要素であって個人としての人格の全てじゃないわけだしさ。
だからやっぱりLGBTといえども個別違うとしかいいようがないだろうね。

さて、実際にLGBT(それ以外のマイノリティも)と区別されて「生きづらい」感をどう乗り越えるか?となるんだけど…

1.社会から「区別」そのものをなくす。
2.他者多数が「区別」を承認する。
3.当該が「区別」を誇る。

講義では、人はLGBTだけでなくヘテロセクシャルシスジェンダーに至るまでグラデーションは隙間なくあって「区別」をしなくてもいいんじゃない、そもそも区別できないよね、ってことは言われたと思う。これは1の区別そのものをなくして生きやすい社会にする、ってことかな。
でもさ、そういいながらレインボーカラーを提示している団体はLGBTを差別せずに受け入れる準備があるところですよ~、ってなことも話された。つまりそんな団体をならって、みなさんもレインボーカラーを身に着けて差別せずに承認してほしいって聞こえたわけよ。これだとさ、2の他者多数が「区別」を承認するとなる。
3.だって感じるところで、講師は今こうしてTとして堂々と講義している自分がいるよ、これが「私の生き方」です、とLGBTであることをアイデンティティとしているようにも見えるんだよね。

1.は人間にとっても社会にとっても無理だろうねぇ。
2.もアドラーなんかに言わせりゃ「他者の価値観」を生きるな、となって怒られてしまうのさ。LGBTを差別する価値観なんか他者の課題であってLGBT当該の課題じゃない、そんな他者の課題を背負うこともないし、ほっといてわが道をいけばいい、ってな具合にさ。
3.のアイデンティティにするならいいじゃん、と考えはあるかもしれないけど、なんか矛盾してるって気もするんだよね。LGBTという区別をアイデンティティにしながら、特別じゃないってことを訴えるわけじゃん。でもアイデンティティにしているってことは、やはり特別なんだよ。結局「区別」の強化しながら差別をやめてと言ってるみたいなさ。解同みたいな例もあるしね。逆差別につながることもあるんだよ。

別に可能性について言ってみただけで、それぞれを否定しているわけじゃないんだけどね。

じゃあどうすればいいのさ、ってことになるかもしれないんだけど。
解決する方法って正解はないってことになるのかな。
でも区別の構造や差別の構造を把握して冷静になる、ってことはできるかもね。

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