たかが「机上の意識」……されど、そう生きることしかできない

明日で死ぬんだ、と意識すると居ても立っても居られなくなり森へむかった。死を了解した私には、森に存在するなにもかもが心を揺さぶり、光が眩しく感じた。
いつもより丁寧にカメラをむけて、最も魅力側にふれる計測針に合わせシャッターを切る。
映し出した森の存在のなかから最期の作品としてふさわしい写真を選ぶ。
明日までの“生きる”を森と写真だけで終わらせられないと感じ、傾聴をするために再び出掛ける。
いままで感じることのできなかった発話者の言葉が、トーンが、行間が、じんわりと染みて神経を鋭利にする。生きていることを実感する。
発話者から生まれてきた声をアタマを通過させずに、身体の、細胞のひとつひとつので感受してうなずく。
この何気ない繋がりを愛おしく感じ、生きているを識る。
今日の終わりが近づき、訪れた森の最期の写真と、最期の傾聴での声をシンクロさせ眠りにつく。
今日、これ以上に生きることは考えられなかった。
最期の一日はこれでよかったんだ、と満足し目を閉じた。

朝、目が覚めた。
やはり生きていた。

たとえばアッコの姐御の「魂」を考えながら、
たとえばデガちゃんの「死の了解」に感化されながら、
つねに「明日死ぬ」を思いながら今日、いま、ここを真に生きると心がける。

としても、リアル闘病生活をしながら、苦痛と絶望と死とむきあい日々を生きている人の言葉に出会えば、、、
やはり私の明日死ぬ設定など、ただの机上の意識、軽々しい戯言、むしろ悪戯ではないかと振り返る。
リアルな苦しみの叫びを前にしては、私には本当に明日死ぬという実感はなく、思い込もうとする高慢に自ら打ちのめされる。
どこかで明日があるさと思いながら、無理やり今日を精一杯生きようとしているのではないか、という疑問がどこまでもつきまとう。いや、そうでしかない、と確信に変わる。
結局は、、、所詮、机上の意識。

一人で机上の意識と戯れて、自己で満足していればいいものを何故SNSで公言しようとする。
それどころか、何故、他所様のコメ欄にまで土足で乗り込んだのか、と呆れて鏡をみる。アホ面。毒多の戯言である。

あ、そうだ、そういえばロスちゃんもそうだったな。
1万人もの他者の“死の瞬間”に寄り添い、愛でもって死を受容を説き、人々に安らかな死を迎えさせてきたロスちゃんが、自らの“死の瞬間”では取り乱し、それまでの自身の行為を、その尊い行いを、否定した。
愛?冗談じゃない、これまでわたしが他人にしたことをもう言わないでほしい、、、、自らが死を迎えるのはそんなもんじゃない。
他者の死と自分の死はまったく別物だ、と言った。
“死”でなくても“苦しみ”でも同じことだろう。
他者の苦しみと自分の苦しみは、別物なのだろう。
それを共感できる、とするのは欺瞞なのだ。

それでも私は「机上の意識」を振りかざしながらしか、生きることはできないだろう。
明日はないという思い込みで自らの今日の感性を精一杯、尖らせることしかできない。
リアルで苦しむどこまでも共感できるはずもない声も、なんとか共感しようという思いだけで聴くだろう。他者の苦しみを自分の苦しみと別物という矛盾をかかえながらも、その声を私自身の叫びとして聴き続ける。
アッコの姐御の机上の思索で見出された魂を信じ、デガちゃんの考えた“死の了解”を意識し続けるしかできない。

そうだ、私にはそうとしか生きられないのだ。
こうしてSNSにアップするのは、ツッコんでほしいからだ。
このさき私が難病と闘うことになったとき、おまえはあの時、偉そうに言ってたではないか!!
とつぜん私が死の瞬間を迎えるときに、おまえがあの時書いてたことはなんだったんだ!!
実際に自分の苦しみ、自分の死を迎えた時、ロスちゃんのように狼狽えるかもしれないが、、、
それでも、今、ここでは、自分が思索を積み重ねてきたことに向き合おう、と決心する。
たとえ、それが机上の意識であったとしても、矛盾に潰されても、何度でも決心する。




※アッコの姐御 池田晶子
 デガちゃん  ハイデガー
 ロスちゃん  キューブラ・ロス

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