「助け合う(自助・互助)こと」が駄目ってどういうことなのさ!! @道徳と倫理

 「国は自助を行わせようとしている、共助だなんてとんでもない。」と、介護のベテランが言うのさ。
 いやいやあんた、介護の初任者研修で「高齢で身体不自由といえども自分でできることは自分でやってもらいましょう」(自助)と言ってたじゃないのさ。
 高齢になっても健康で働けたら(自助)それに越したことはないでしょ。
 障害者の共同生活のホームの入居問題でも、超高齢の病気がちな親(80)が高齢の障害者の息子(50)を面倒みること(家族共助)を許容してたし、、、、
 だいたい、「みんなで助け合う町づくり」(地域共助)が法人の理念のひとつじゃなかったのかい?
 そのあんたの口が言う「自助・共助」が駄目ってさ、いったい何なのさ。

 これは「社会福祉法人にたいする国の方針が変更されることの問題点」の学習会での講師の言葉に私が感じたこと。
 いや、講師のいうことに違和感はないし、なんとなくは解るんですよ。
 でも、一旦疑問に思い始めたらよく解らるのが私の頭の悪いところ。
 なんで普段「自助・共助」をしようとしているのに、国が「自助・共助」というと駄目っていうのかね。
 みんなで「助け合う」ことは善いことなんじゃないの?

 その場にいるほとんどは社会福祉法人の職員で、なんの疑問も持たずに講師の話を聞いているようだ。
 でもね、私は納得できない。
 で、思わず質問してしまったわけだ。
 普段「自助」を促し、「共助」をしようとしているのに、なんで「自助・共助」が駄目だっていうのですか?
 なんとなくの肌感覚では解るんだけど、ちゃんと説明してくれると有り難いです。
 
 ・・・でも、私の結局納得のいく説明はなかった。
(こういうのが狭い世界っていうか、駄目なとこなんだよなぁ)

 なんとなく嵌ってしまって自分でも言葉で整理できなかったのだけど、じつは至極簡単なことだった。

 お互い助け合ったり、自分で努力するのは善いことなのは間違いない。
 でもそれは、個々の裡からでてくる善によるもの。
 けっして他者から指示されたり強要されて、するものではない。
 ましてや国家が国民(この場合は社会福祉法人)に方針として縛るものでもない。
 国家の仕事は、公的扶助をより豊かにすることであって、それを放棄し個人に押し付けることではない。
 それを個別の責任、助け合いを強いるということは、国家としての仕事の放棄なんだ。
 だから同じ「自助・共助」でも民それぞれの思いで言い行うのは善くて、国家が言うのは駄目なのである。
 究極の公的立場が責任放棄していいわけがないでしょ。

 で、思い出すのが「道徳と倫理」の話。
 これも池田晶子の受け売りなんだけどね。

 ……、一言で言うと、道徳とは強制であり、倫理とは自由である。道徳とは他律であり、倫理とは自律である。道徳は具体的内容を強制するが、倫理は内的直観によって欲求される。
 これをわかり易く言うと、「善を為さなければならないから善を為す」「悪を為してはならないから悪を為さない」というのが道徳で、「善を為したいから善を為す」「悪を為したくないから悪を為さない」というのが倫理である。単純明快である。「善悪」の語によって、あれこれ内容を表象するというまさにそのことが、道徳という無能なのだ。倫理はいかなる内容も表象しない。直観によって、それは自在に行為される。……(「魂とは何か」より)

 個々の民が「自助・互助」などという言葉など用いなくても、直観によって自在に助け合っている倫理を、国が「互助・自助」という言葉を用いて強制しているのは道徳という無能なのだ。
 国家というのは道徳好きで、学校でも授業に取り入れてるなぁ・・・

 ということになるのだろう。


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