真に「出会う」ということ?
蝶の写真をupしたnoteのコメント欄で「出会い」が話題になった。
たまたま蝶との「出会い」のこととして考えていたが、他の何かにしても同じかもしれない。写真でも小説でも、それとも悩みの解決の糸口や生きるということまでも似ている気がする。
取り敢えず考えていた蝶との出会いはこんな感じ。
ミドリシジミという翅が翠色に輝く蝶がいる。
憧れの蝶である。
是非出会いたい。
闇雲に外を歩いていればいつか出会うかもしれない、という蝶ではない。
意識していなければ出会いに気づかないが、意識しているだけでは出会えない。
ミドリシジミが舞う場所を知っている誰かに情報を聞けば出会えるだろう。
でも、その出会いで満足できるのだろうか?
ただ出会えさえすればいいのだろうか?と考えてしまったわけだ。
ミドリシジミと出会う情報を知っている人のブログを読んで見る。
その人はまず蝶が卵を生む木を調べていた。
卵から孵った幼虫がその葉を食べる木である。
その木はハンノキという木である。
卵を産むためミドリシジミはハンノキ林の周囲に居るわけだ。
その人は森の多くの木のなかから、まずハンノキを見つけ出す知識を身につける。
ハンノキは湿地のちかくにあるが、他にも木はあり湿地ちかくだけでは解らない。
特徴のある花をつけるハンノキを同定するのは冬である。
冬の間に歩きまわり花をつけたハンノキ林をみつけだす。
でもどのハンノキ林にもミドリシジミがいるとは限らない。
知識だけでも出会うことはできない。
それで、ミドリシジミの出現時期にあわせて、めどを付けておいたハンノキ林をチェックしてまわるわけだ。
時期、天候、時間、温度、、、空振りもあるだろう。
もし運良くミドリシジミに出くわしたら、そのときの感覚を体得する。
知識と経験を重ねた感覚である。
やがて出会う回数は増えていく。
そうして知識と経験を積んだ人に情報をきくか連れて行ってもらえば、苦労なく出会えるかもしれない。が、ただ聴いた私には体得はなく、他の機会に自ら出会うことはないだろう。
「出会い」の醍醐味は知識と経験からの体得をともなうもののような気がしてきた。
写真を撮る。
知識と経験を何度も積み重ねる。
いつか自分だけの表現に出会う。
偶然のこともあるかもしれないが、知識と経験があれば偶然の一過性の出会いではなくなるはず。
経験からさらに試行錯誤、新たな感性に出会う。
物語をつづる。
やみくもにテキストをならべても何に生まれない。
綴り方の知識を得る。
なんども書き経験をつむ。
机上ではなんともならず、外へ出て人と出会う。景色と出会う。
その積み重ねでテキストが物語になる。
その物語からあらたな自分に出会う。
生きることを考える。
システムにのり漠然と生きているだけの虚しさを感じる。
先達の知を読み、生きることを思索する。
机上ではいられなくなり、やがて自然や人と出会う。
人の涙と出会い、人の怒りと出会い、人の喜びと出会う。
知識と経験をかさね出会いを重ねる。
その出会いは、いつも一期一会だと知る。
やがて、生きるということを体得できるだろうか?
ずっとプロセスかもしれない。
プロセスが生きるということだろう。
意識しなければ出会いに気づかない。
知識がなければ出会へない。
経験がなければすれ見逃すかもしれない。
意識して、知識をえて、経験を積み重ね出会いを体得することができたなら、
出会い以上の何かに出会えるかもしれない。
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