「グリーフケア」って身近でも必要かもしれないな

続けている傾聴がらみで最近「グリーフケア」ってのの話を聞いので、ちょっと思ったことと、意外と身近に必要な知識かもしれないと思ったので興味がある人のためにメモ代わり。
ワタシ自身は「グリーフケア」という言葉は聞いたことがあるのだけど、それがどんな意味かは知らなかった。
グリーフってのは、実は英語なんだけど(笑)、単語の意味さえ知らないのは学のなさ全開だな。どうやら日本語だと悲嘆とか悲哀って意味らしい。おのれの学のなさにグリーフ、なんて言っている場合じゃないか、orz

グリーフケアでいうところのグリーフってのは、「喪失」による悲嘆で身体や精神にあらわれる反応のことって話だった。
泣いて暮らしたり、どんよりした気分が抜けなかったり、何もやる気がおきなかったり、トラウマやPTSDもそうだな。
どうやら「喪失」ってのが鍵で、大切な人や愛する人との「死別」ってのがおおきな要因としてあげられる。まあ、他にも具体的な物から故郷から拠り所みたないものまで喪失の対象は多々あるわな。
まあ「死別」が大きな要因ってのはそうだろうね。家族や恋人や子どもが死んだりしたなら大きなショックを受けるだろうし、精神的ダメージは計り知れなさそうなのは想像つく。
普段から「所有など幻想」だし「色即是空」だし「諸行無常」だし「万物は移ろうもの」だし……などと言っているワタシにしても、例えば実際に息子が突然死んだりしたならやはりグリーフに陥るんだろうな、とは思う。
仕方がないよな、、、だって人間だもの……。

でもまあ話によると、全ての人が苦痛に陥るわけでもないし、逆にずっと苦痛が消えない人もいる。時間とともに苦しみが癒える人もいれば、数年後に苦しみ始める人もいるって話だった。
つまり、人それぞれでパターンで分けることはできない。
このあたりが意外と重要で、人はどうしてもパターン化して安心したがるんだろうねぇ。なんなら、Aパターンはこういう解決策、Bパターンは別の解決策なんて説明されると分かりやすく安心するんだけど、人は安心を求めているのかな。まあグリーフケアに限らず単純にパターン化されることはあり得ないよな。

キューブラー・ロスがさ、自分は死んでしまうとわかった人の態度のプロセスとして、①否認(死ぬなんて嘘だ)からの②怒り(ふざけるなぁなんでオレがぁ)からの③取引(これからせっせと善行をつむから死なせないでくれ〜)からの④抑うつ(ああ、もうだめなんだぁ)そして⑤受容(仕方ない受け入れよう)
なんて移行モデルを提示して、これもグリーフにも当てはまりそうなんだけど、やっぱ「人はそんな単純じゃないよな」とか「こんな受け身ばっかじゃないだろ」とか「環境によって違うんじゃね」みたいな批判があるんだって。っていうぐらいモデルパターンが全てじゃないってことなのさ。

でもまあボクらは経験的にしっているけど、多くの人は、なんやかんやでグリーフを乗り越えるよね。
人はいつか死ぬのが必然なので、自分が死ぬんじゃないほうの死別は必ず生きていくなかで経験するし、ほかの喪失でもさ、大切にしているものを失うのも、「諸行無常」でもって「世は移う」からいけば当然なんだよな。
当然喪失は誰にでもあるんだけど、それによるグリーフは人によって違うわけだ。
グリーフのほぼない「レジリエンス」って人もかなりいるし、時間が経過しても悲嘆が緩和さずに生活がままならない人もやはりいる。これ「複合性悲嘆」っていって日本人だと2.4%ぐらいいて、今では精神疾患とされるらしい。重度のグリーフと言えるな。

なんらかのロス(喪失)は誰もが経験して、悲嘆というマイナスっぽい感覚に陥るのだけど、それが必ずしもマイナスではなく、そこを乗り越えて成長することもボクらは知っているよね。一皮むけたとか、あのロスがあったから強くなれたとか、悲しみから学んだとか、、いつしか、アイ キャン ストップ ザ ロンリネス どうしてなの、悲しみがとまらない〜♪と明るく元気よく歌えたりもする。

多くの人はグリーフ(悲しみ)を乗り越えて成長する方向へいけるのだし、いければいいのだけど、やっぱりグリーフの通過の仕方が重要かな、ってのは思うのさ。
もし周辺でグリーフの真っ只中の人がいたら、ケアによって上手な通過ができるかもしれない、と思うの。逆に上手く通過できないのは、ケアがなかったかもしかしたらケアが拙くてこじらせてしまったってこともあるかもしれない。
ロスで悲嘆にくれているのが親しい人ならグリーフをうまく通過してもらって成長してもらったほうが自分としてもいいに決まっているよね。

じゃあさ、ケアっていったってどうするのさ、ってことになるんだけど。
「グリーフケア」って分野が確立されていて学者や専門家もいるみたいだから、素人がそんな簡単に出来るものではないのかもしれない。でもさ、素人でもできそうって、話を聞きながら素人でもあるワタシが感じたこともあるのさ。

まずは人によってグリーフによる感受性は違うってことをちゃんと認識しようってことかな。つまり他者は自分の感性とは違うってこと。
これって当たり前のようで、ちゃんと自覚するのはなかなか難しくて、自分は正しくてまっとうな感性をしていると思わなければ生活しにくいしね。
議論や喧嘩なら自己主張でいいんだけど「ケア」には不向きかな。
最近よくいわれるけど、叱咤激励や励ましが駄目、さらにはアドバイスが駄目ってのも自分の感性の押し付けだからなんだろうね。グリーフに暮れる人は自分の感性や価値観と違うんだから、自分本位な言葉が相手とマッチすることはない、と考えたほうがいいと思うんだよね。
自分の価値観の押し付けは相手のためでなく自己満足でしかないし、下手したらケアしないより拙い状態に追い込んでしまうかもしれないよね。
「頑張ろうよ」は自分の価値観の押し付けだし、「時間が解決するよ」も「みんな乗り越えられるんだから」なんてのもやはり「言うことではない」んだろうね。

講師のお話のなかではケアとして「自分の喪失経験と向き合い、安全なストーリーとして語る」なんてことも言われたけど、安全なストーリーとして組み立てるのは、かなり高度なテクニックだと思うし素人の自分がそれを安全と判断できるのかな?と思ってしまうのさ。
でね、「安全な」とあえて言うところみると、「危険な」場合があるわけで、自分の喪失経験を危険なストーリーとして伝えてしまっては、それはやはり拙いケアってことは逆説として考えられそうだ。

とすると、やっぱ傾聴になるのかな。
相手の言うことを全肯定して聴くってことしかないかもしれないね。
誰が聴いてもあきらに間違ったことを言うかもしれないけど否定しないで頷こう。案外話すほうはそんなことを言ってしまう自分も実は解っていて、自分のなかに別の考えももっていて何気に漏らすかもしれない。
そんなときはそれを聞き逃さずに受け止めて大きく共感してあげればいい。
もちろん、全てのグリーフの只中にいる人が、悲しみや気持ちを言葉にできるわけじゃない。
なにも言えない人もいるわけで、聴くことさえできないこともある。
せっかく話を聴こうと思っているのに、なんで何にも喋らないんだぁ、なんて怒るのは笑い話にもならないね、^^;
まあ、待つしかないかな。
一番大切なのは、この人は必ずこのグリーフを通過して成長できるのだって信じることだと思う。それを直接相手に伝えるんじゃなくてそう信じて待つことだよな、と傾聴をしながら最近つくづく思うのさ。

もし身近にグリーフに暮れている人がいて、自分がケアができればそれは相手のためだけじゃなくて、きっと結果として自分の成長にも繋がると思うよ。誰もが、どんなに悲嘆に暮れようが自身で通過できる力を秘めているってことを信じて側にいるだけでいいんだろうな。
(前にだした「複合生悲嘆」って精神疾患の域までいっちゃった人が周囲にいたなら、専門家に任せるように進めるのも素人にできるケアかもしれないね。こういう知識をもつことも大切みたいだよ)

※はじめてグリーフケアの話を聞いて、ワタシなりに感じたところを綴ってみたものでこのnoteが正しいかどうかは分かりません。念のために。

よろしければサポートお願いします