「甘える」こと「信頼」ゆえに

これはちょっと盲点だった。
誰かに甘えることができるというのは信頼しているからかな。
うん、確かにそうだ。こんな簡単なことに今頃気付かされたのは迂闊だった。
でも今気付かされたのは僥倖だったかもしれない。
ワタシはいままでずっと「甘えるんじゃない」、と言われ続けて生きてきた。
そう言われ続けてそれが正しいと思い込んでいた。
いや思うことさえなく身につき、疑問にさえ思わなかった。
ワタシは他者に「甘えるんじゃない」という思いをぶつけたこともある。
そいつは、私を信頼して甘えてきたかもしれないのに、、、

自然がある。
その写真を撮る。
被写体は、若葉、枯れ葉、蔓、キノコ、虫、光etc…
私は完全にそいつらに甘えている。
その甘えは信頼ゆえの甘えである。
こいつらは絶対に裏切らない。
甘えて見つめていいんだ、、と受け入れられる。
だから私もこいつらに信頼されたいと思っている。
そいつらを折らない、捕まえない、ただじっと見つめる。
自然は絶対の器で迎え入れてくれる。
だから甘える。
私のことも信頼してくれ、と思いつつシャッターを切る。
人は自然に甘えてきた。太古からずっと。
畏敬と信頼をしながら、自然からの信頼を得たいとしながら。
いつか人は「信頼」を忘れ、ただ甘えるようになった。
信頼すること、信頼されようとすることを忘れた。
力づくで甘えてないふりをした。
人が一方的に甘えていることに目をつぶり。
そして、人と自然の関係は崩壊することになった。
甘えることは信頼し、信頼されようとすることだったはずなのに。

家族がいる。
甘えることのできる家族がいる。
子どもはただ、甘えてくる。
親は、当たり前として受け入れる。
信頼しているよ、信頼してほしい、と言葉にして言うこともなく。
親も子どもに甘える。
双方の甘え方が違うかたちにしても、互いに甘え、互いに信頼している。
甘えることのできる夫婦もまた、無言の信頼をしあえている。
もし、信頼することができなくなったとき、信頼されることがなくなったとき、
家族は崩壊する。
甘えることができなくなる。
甘えることのできる居場所も崩壊する。
巻き添えを食った子どももまた崩壊する。

私は自然に、そして家族に甘えて生きている。
お互いに信頼しているよ、と口にだして言い合うこともなく。
これは幸せなことだ。

友人がいる。
自然でも家族でもない友人がいる。
私は彼を信頼している、だから少し甘えてみる。
彼は「甘えるんじゃない」と言う。
信頼の一方通行だったのか、
信頼されることがなかったのか、
信頼されたいという思いが届かなかったのか、
それとも「甘えるんじゃない」というこの社会の教育ゆえの言葉だったのか……
解らない。
でもそこに私が彼に思っていたような信頼関係がなかったことが発覚する。
甘えは無言の信頼関係のうえになりたっていることを再確認をしてしまった。
それでも少しは信頼しあい甘えることができる友人がいることは幸せである。

全く知らない人がいる。
その人は悩んでいる。
その悩みは社会的な悩みかもしれない。
何かしらアドバイスすることができるなら、簡単に解決するかもしれない。
でも、きっとホントの悩みは「甘えられる」相手がいない、ということ。
甘える居場所がないということ。
もしその人が悩みを話してくるならば、、
私に甘えてくれるなら、
きっと信頼してほしいと言っているにちがいない。
ならば、私のことも信頼し、信頼されたいと願いつつ話を聴いてみたい。
見も知らぬ人であっても、信頼しようと思う、、、
ほんのひととき甘えられる居場所であれば、それでいい。
そのとき私も甘えているのかもしれない。

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