♪山の子はみんな強いよ♪ なんて口ずさみながら、コロナをみつめる

少し前に雨降る山の写真をupしたときの歌。
タイトルになんてしたせいか、以来リフレインしている。
ずっと昔、子ども頃に聴き覚えた歌が身体に染み込んでいる。
あらためて調べてみたら「山の子の歌」というタイトルだった。
で、神経の中枢まで染み入り体得されているのは2番の歌詞のみだった。

♪雨が振りてるてる坊主が泣いても、私たちは泣かないで山を見つめる 山の子は山の子はみんな強いよ♪

あらためてテキストにして眺めている。
なんて深い歌詞なんだ。涙さえあふれる。
このまま雨でもいいフレーズなのだけど、これほど染み入るのはその奥を感じてしまうからなのだろう。

たとえば、

コロナ降り、政治家とマスコミが泣いても 私たちは泣かないで山を見つめる、山の子は山の子はみんな強いよ

雨は嫌いではない。むしろ好きかもしれないが、ときとして人にとっては厄災になる。
コロナは厄災なのかな? そう感じている人は多いし、私もそう感じる。
でも、もしかしたら自然の摂理なのかもしれない。
自然全体からしたら必要なことのひとつなのかもしれない。
動的平衡のひとつのかたち・・・人間にとっては不都合なのだけど。

愛らしいテルテル坊主は嫌いではない。
でも、テルテル坊主は人為であり、人の欲望あるいは願望の象徴だろう。
そして山は自然の象徴である。
人としての欲望がかなわないことに泣かずに、まず自然をみつめてみよう。
身体は自然であり、コロナも自然である。
コロナと身体の先にあるのも自然なんだろう。
それは自然治癒であり、あるいは死である。いずれも自然。
ただ自然といっても成り行きに任せるのではなく、人は山を見つめるごとく自然を見つめることができるのだ。
生きること死ぬことをみつめて、思索していれば怖いものはない。
死とはなにかを思索する。
山を見つめるとはそんなことかもしれない。
山の子の強さはそんなところにある気がする。

これは他者の共感を呼ぶために書いたわけじゃない。
テルテル坊主と一緒に泣くのも一つの人間らしい生き方なのだろう、、、
でも、じっと自然を見つめる山の子は強いのだろうなぁ、と感じてしまう。

♪私たちは泣かないで、山をみつめる♪
と、歌を口ずさみながらこんなことを感じている今日このごろ……


よろしければサポートお願いします