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映画「いのちの深呼吸」

これは何かが違う、というのが第一感。
でも、オフィシャルサイトでは絶賛されている。
ぼくが解ってないのか?
どうも世間とズレる。
まあ、こういうことがままある。
ほんと仕方ないな、笑

その僧侶は自殺予防のアレコレを一人でやっている。
電話で応え、メールで応え、朝から晩まで死にたい者に会いに走りまくる。
一人で抱え込んで、家族や自らの心身を「犠牲」にしてやっている。
ぼくには痛々しくは見えるけど、立派とは思えない。
むしろ逆効果じゃね、とさえ感じてしまう。
というのもボクが傾聴なんかをかじったからかな?
傾聴的には、全然ダメ。
僧侶は喋り続け、励まし続ける。
僧侶はアドバイスをして、“ダチ”になる。
タメ口で交流を深める。
距離が近すぎる。
おそらく僧侶はそれを目指しているのだろう。
死にたい、という人はすがりつく。
ベタベタと僧侶を頼る。
呼べば来るんだから。
もう、ただ甘えていると見えるほど頼る。
そして頼る者はずっと変わらない。
むしろ、どんどん酷くなっているように映画にも描かれた。

ある日僧侶は、僧侶を頼る少女の家へいく。
僧侶はしゃべり、少女は寡黙である。
少女のじーさんがじっと僧侶の喋りを聞いている。
最後にじーさんは、自分の問題は自分でしか解決できない、という。
映画のなかで数少ない、同意できる言葉。
少女にも僧侶にも届いていないのだが、、、
ただ、じーさんの言葉は足りない。
自分の納得の仕方でしか解決できないが、自分だけでの解決は難しい。
他者に手伝ってもらっても、耳を借りてでもいい。
むしろ「助けて」と言えばいい。
それでも最後は自分でしか解決できない。
「助けを求めてもいい」ことをちゃんと言わなければ、ひとりで抱え込んだら死にたい者は袋小路に入り込む。
何がなんだかわからなくなる。
言葉で整理できなくなる。
混乱して意識が遠のく。
そして死にたくなる。
助ける者は話を聴くだけでもいい。
しぼり出される言葉に寄り添えばいい。
聴く者が喋りすぎてはダメだろ。
自己主張してはダメだ。
聴く方が主人公になっては拙いだろ。
もちろん、その僧侶は僧侶自己のなかでは主人公なのだけど、
死にたい者の物語のなかで主人公になろうとしてないか?
死にたい者は主人公に魂を吸われてないか?

主人公である僧侶が死ぬ。
果たして僧侶の信徒はどうなるのだろう???

この僧侶の生き様、このやり方にはまったく納得できない。
ただがむしゃらに頑張っている一人の男の物語ではないか?
自分の課題のために死にたい他者を利用していないか?
それがいけないとも思わないし、
そも「助け合う」にはそうした面があることを否定はしない。
でもそうするには距離感が必要だろう。
映画で描かれたようなベタベタの「共依存」は拙いだろ。
自己が見えていないのは、死にたい者だけでなく僧侶も同じ。
「助け合い」ではなく、「傷の舐め合い」にしか見えないのだ。
それは僧侶自身も言葉にしていた。
自覚のないままに・・・

僧侶なら僧侶にしかできない、本来のブッダの徒としてのやり方があると思うのだがな。
死にたい者それぞれが、それぞれの裡から、自らの力で絞り出す解決に寄り添う僧侶の言葉があると思うのだが、、、

この映画は何かが違う気がしてたまらない。


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