「持つ生き方」ってのはやっぱりツマラナイ

随分ひさしぶりに本屋に寄ると平積みされていた本が目に入りました。
「生きるということ」(新装版)エーリッヒ・フロムでした。
本の帯には「To HaveからTo Beへ」とあります。
なんとなく、これはという「予感」がしたので購入し読み始めました。
外れることも多い「予感」ですが、今回は当たったようです。
善い本に出会いました。

フロムは、「持つ生き方」を批判しているのですが、最初に想像したのが昨今言われている物を持たない「断捨離」とか「シンプルライフ」ってやつで、そんなことでしたら今更感が強いのですが、流石に古典だけあってそこに留まることはありませんでした。というか実際に持つ、持たないという表面的ではない、意識の違いという本質的なことでした。
「持つ生き方」は、物を持つもありますが、他者を持つ(所有する)ってのも言及されます。
つまり他者を所有物としてコントロールすることへの批判です。
具体的には、配偶者を所有物としてコントロールする、子どもを、友人を、生徒を、労働者を、フォロワーを、、、政治家だったら国民を、、カウンセラーだったらクランケを、、、傾聴者だったら話し手をコントロールする、、、ということです。
本ではどんどん言及されます。他者にとどまらず、アイデンティや地位を持つこと。もっといえば知識や経験を所有すること。さらには自我を所有する……。だんだん訳わからなくなっていきますよね。

まあ物欲なんかは、私達が生活する環境である消費社会の要請にコントロールされているので、その罠に気づけばいいだけのことですが、全ての人が気づいたら経済が回らなくなって生活にこまる人がでてくるということになるかもしれませんね。
でも、所有することは不幸に繋がるというのは本当のことかもしれません。
そういえば、昔、井上陽水が「限りない欲望」で歌ってました。♪白い靴が手に入ったら青い靴も欲しくなった…限りないものそれが欲望♪ってね。
まあ、キリがありませんね。どこまでいっても次が欲しくなる。永遠にさらに欲しい物がでてくるという不満がつづき、そのうえ所有していれば失う心配がいつもつきまといます。
物でなくても他者(人間)であっても、所有しているという感覚であれば、自分のものであり、自分の望む姿であるのが当たり前となり、自分の好きな姿になるようコントロールすることになるでしょう。もちろん他者を奴隷にすることはできません。他者は他者の意思をもって生きていますから、思うようにならない。所有しようと思っている人にとっては不幸です。
単に不幸というだけでなく、そこに縛られて固執してしまう。さらなる不幸がまっています。
これは知識や経験についても同じなんです。
知識や経験も所有している、とするとそこに縛られ固執してしまう。所有うしている以上には望めない限界があります。

もちろん、服や家なんかの物も、家族や友人やなんかの他者も、アイデンティや地位なんかも、経験や知識も、、生きて生活していれば存在しますよね。問題は、これらを所有するとするか、在るとするかの意識の違いと読みました。
在るという感覚での生き方では、その対象への純粋な結びつき関心、愛、につながり、思いやりや分かち合い(シェア)となる、と書かれています。
ワタシのなかでは、それに加えて感謝という言葉も浮かびました。

具体的に、例えとして「会見」について書かれている部分を少し引用してみます。

しばしその重要な会見のために〈準備〉をする。彼らは相手の関心をそそるような話題を考え、どのように会話を始めようかとあらかじめ考える。自分の喋ることにかぎり、会話のすべてをあらかじめ決めておく人もいる。あるいは自分の「持っているもの」を考えて、それを自分の支えとするかもしれない。すなわち、(彼の)過去における成功、魅力的なパーソナリティ、社会的地位、容貌と服装。要するに、彼らは心の中で自分の価値をはかりに掛け、その評価に基づいて会話において彼らの商品を展示するのだ。これが非常に上手な人物は多くの人に感銘を与えるが、この作られた感銘のごく一部がその人の演技によるもので、大部分はほとんどの人々の判断力の貧しさによるものである。
 これと対照的なのが、あらかじめ何も準備もせず、どのような支えもなしで事態に臨む人々である。彼らはそのかわりに、自発的、生産的に反応する。彼らは自分についても自分の持つ知識や地位についても忘れてしまう。彼らは自我に妨げられることはない。彼らが相手の人物とその人物の考えについて十全に反応することができるのは、まさにこのためである。彼らは新しい観念を生み出すがそれは、何者にも固執することがないので、生産し、与えることができるからである。
 持つ者が持っているものに頼るのに対し、在る人物は在ると言う事実、生きているという事実、そして抑制をすてて反応することができれば、なにか新しいものが生まれる事実に頼る。彼らは持っているものに対する不安な気がかりがないので、会話の際に十全に活気づく。彼ら自身の活気は伝染しやすいので、相手が自己中心性を超越する助けになる。

前半が「持つ生き方」、後半が「在る生き方」ですね。
「持つ生き方」の会見では、経験や知識の限界を超えることはできず、まやかしの感銘は与えられるかもしれないけれど、それは騙されているに過ぎないと言ってます(笑)
「在る生き方」の会見では、なにものにも縛られず自在に広がりをみせる、新しい世界観が生まれる。
「持つ生き方」は持っているものに縛られ、その域を超えることはできない。ければ「在る生き方」であれば、自我を超越し成長していけると書かれていると解釈しました。

なんだか難しいようですが、考えてみれば周辺でもありますよね。
こんなブランドもんを持ってんだぜ、と持ち物のことばかり言う人。写真(表現)じゃなくてカメラにこだわる人。俺様は過去にこれだけのことをやってきたんだ、と自慢に終始する人。俺の友人は有名人なんだぜ、といばる人。(俺の町はあの有名人を輩出してんだぜ)。知識や情報の多さをひけ散らかす人……。ツマラナイ人たち。上の引用だと「所有物に頼ってしまう」「判断力の貧しい人」ということになりそうです。って人のことは言えなく、ワタシにもそうした部分があります。でも自分を振り返ってもそうした部分はツマラナイと思うんですね。
物も人も経験も知識も「持ち物」ではなく、自分を超越させてくれる「存在」として感謝し、ただ在るとする。(ここまでくると自我についての所有の違和感もみえてくる)

「持つ生き方」から「在る生き方」へシフトするのはなかなか難しいことかもしれません。
消費を是とする社会環境がワタシたちに「持つ生き方」を強要してきます。
所有の権利を煽り「持て」と強く主張してきます。
失うことの恐怖を煽り、持つためにさらに持てと言ってきます。
金をもつために金庫をもて、金庫をもつための家をもて、災害に強く他者が入れない家を持て。それでも不安だろ、保険も持つべきで、死んでも残るように……不安と欲望は永遠につづきます。
こうした社会による強迫観念を考えれば、「持つ生き方」も仕方ないかもしれません。
それでもそれは自ら縛られる生き方で限界があり、ツマラナイと感じます。
そんなことを考えさせてくれる本でした。


よろしければサポートお願いします